「習うより慣れよ。学ぶよりまねろ」
これは職業技術を体得する上で良く言われてきたことです。
この言葉もまた、同じようなタイプの隷属的な人間を量産するための標語であったのではないかと言うように感じます。
このようなシステムで横並びに人を見て模倣するような習慣を付けさせると、人は常に周りの様子をうかがってから同じ行動をとるように調教されるのではないでしょうか。
このような制度は、日本史で習った「五人組」という相互監視制度を制度ではなく、教育として行っている物だと思われます。
五人組というのは、下級武士や農民を法で定めた五人単位にまとめて、お互いにお互いの行動を管理させることで、法律を破ったり年貢を抜けようとしたりすることを阻止するための物です。
この制度を制定したのが、豊臣秀吉でした。
キリシタン狩りや刀狩りなどの時に、この法が大いに威力を発揮し、互いを言いつけ合わせて国の掌握を確固とする礎としたのでした。
このようにして、互いに弱みを探らせて足を引っ張り合わせるということが自分に有利だと錯覚させる。これが秀吉公の大衆調教政策なのです。
この法は明治になって自由民権運動などのためもあって一旦消え去るが、ほどなく大戦中に隣組という名前で復活します。
銃後組織として行政誘導の形で発足され、思想統制や徴兵逃れの告発のために用いられました。
昔の反戦映画や反戦マンガに出てくるような、平和主義者を「非国民!!」などと言って罵る連中がやってるのがこの隣組活動です。
個人的には大変に醜悪だと思われます。
この制度は、戦後の処理で公式に連合国軍最高司令官総司令部から禁止されたのですが、実際には町内会、回覧板と言った形で現存しており、また隣組の名そのままにいまでも存続している地域もあります。
若いころの友達に千葉の田舎から出て来たのがいたのですが、やはり地元には隣組が残っていて戦争中かよ、と文句を言っていました。
その彼、かなり悪さを働いていた者だったので、地元にいられなくなって都内に出て来たのだそうです。
閑話休題、私がこれまで書いてきた、秀吉と明治以降の為政者によって、国民感情が意図的に誘導されてきたというのはこういったことです。
これは偶然ではありません。意図的にリードされた物です。
明治維新を成し遂げて近代国家としての日本を作った立役者、初代陸軍大将西郷隆盛翁は征韓論を唱えていました。
日本の全国民を喰わせるために、まずは朝鮮に攻め入り、半島を前線基地として韓国軍に中土を案内させながら攻め上って全土をおさめ、最後にはインドに入朝してそこを日本の都とする。という太閤秀吉の征韓論を、時代小説家の隆慶一郎先生は「誇大妄想」と著述しました。
しかし実際に、近代日本は朝鮮半島を侵略し、現地の人々を先兵として中国にまで攻め込んでゆき、満州国をでっち上げ、次には中支にも傀儡国家を打ち上げようとしていました。さらにはインドの独立革命を後援し、アジアを一つの連合体としてその筆頭に立とうとしました。
秀吉の計画を丸々下敷きとした計画にしか見えません。
その計画を掘り繰り返したおりに、そのための人心操作と社会管理の術をも持ち出したということでしょう。
このようにして情報を統制され、頭から習性を刷り込まれて育ってきた人間は、常に周りをうかがってその人たちの隙をついて足を引っ張りながら自分がわずかにリードするバランスを至上の物として生きることが人の在り方だと思い込んで生きてゆきます。
「空気を読め」なんて言葉を、恥ずかしいことだと思う余地もなく平気で口にできる。
自分の頭で物を考えるなどということは彼らにとっては人格異常者の犯罪のような物でしょう
このような人々の一切の行動、生き方、そして存在そのものが、つまりは軍国主義そのものです。
大衆とは軍国主義の具現化ではないかと私は懐疑します。
反戦、平和を訴えて暴力的なデモをしていた人々を隣組そのものだと私が見なしていたのはこのような経緯の故です。
最近読んだ本にある説では、ファシズムとは権力者によってではなく、大衆によって生み出されたのだとありました。
特権階級が確保されていた頃は、全体を見通せて自分の利益が政策に直結する為政者たちは、頃合いというものを常に想定していたというのです。
しかし、日本では大正時代に普通選挙制度という物が設定されました。
これは、性別や資産額(納税額)などによって左右されることなく、一定年齢に達すればすべての人が選挙に参加できるという制度です。
これは公平なのですが、実際には物事を学んで見識のある人より、圧倒的多数の意図の不明瞭な票が力を発揮すると言う危うさを孕んでいます
普通選挙が行われるようになった結果、日本はあの太平洋戦争の泥沼にはまっていったというのがこの説にはあります。
同じころ、ドイツでは第一次大戦の敗北による賠償で国全体が非常に厳しい状況になっていました。
その中で普通選挙制度が行われ、結果、ドイツ国民社会主義労働党、すなわちナチスの台頭が生まれました。
国民感情には、善悪の倫理などはありません。人間は天使でもロボットでもないからです。生活の不満や苦しみからの願望が直接反映します。
その結果、日本では朝鮮半島や満州への攻撃と略奪が行われ、ドイツではユダヤ人を虐殺して財産を奪い、世界中への侵略が行われました。
「空気を読む」とは、このようなことをしでかすことを言うのではないでしょうか。
自己を確立して自分の言葉や行い一つ一つの支払いを自分で持って自分の人生を生きるのではなく、長い物に巻かれて多数の中に埋もれて責任を回避しながら、大多数の中で足を引っ張って少しだけ得をしようとして生きてゆく。
我々日本人は、長い長い年月をかけてそのような生き方をしつけられてきました。
俗と卑の鎖で繋がれた、人間の姿をした家畜の心に私には感じられます。
他人の行いを真似し、人が持っているものと同じ物を欲しがり、他人の言葉をなんの恥じらいも疑問もなく口にして、他人の振る舞いをそのままなぞる。
それをまたその隣の人間が繰り返す。
「成績優秀にして思考力ゼロ、極めて凡庸にして大事を成し遂げることはありえない」そのように評されるありふれた優等生とそのなりそこないが日本中を埋め尽くしてきました。
しかし、そのような軍隊生物としての日本人が世界的に優位を得て来た時代は終わりました。
情報化は個人が求める情報を限りなく簡便かつ高速に提供し、もはや個体の差別化は避けられえない。
そして、日本が作ってきた小人が群れを成すことで成立してきた成功のケースを、すぐ隣のアジア最大の国である中国の経済力が上回ってす。
中国の人々は日本人と比べるとずっと苛烈で個性が強い。小才子を蔑視する大人の思想を持っている。
おまけに、日本の人口は減少する一方で、人海戦術そのものが厳しくなってきている。
秀吉の時代から続いた方針が通じない時代なのではないでしょうか。
隣の伺って小さな空間で足を引っ張りあったり掠め取りあいをしたりマネのしあいをしていても、その輪っかごと取り残されて滅びてゆく時代がもうそこまで来ているように感じます。
この大きな歴史の転換の中で、果たして上っ面だけの小才がどこまで通じることでしょう。
物まねやバッタものではない、本物を私は望みます。
本物で堂々と世界に立ち、その上で滅びたなら、それは本物の敗北なのだから仕方ない。
堂々と敗北をしようと思います。
人間は、ヒトとして生まれて来て人間になるという言葉を聴いたことがあります。
人間になりたい。
本物の人間になって。本物の命を生きたい。どうやら私は、そのように思っているようです。