ルーシーダットンのレッスンが始まりました。
これが、なんと全式で言うと90式ほどあります。
90式と言ってもまた一式の中にいろんなバージョンがあったりするのでそれ以上ある……。
それ全部覚えるのが今度の課題です。
覚えるだけじゃない。出来ないといけません。
その内容なのですが、いやぁほんとに、我々中国気功をする者には大変に面白い物です。
まんま八段錦の動作と同じことを床に座ってやっていたり、寝たままやったり。
また、現地の先生方が通称してスモーと呼んでいる物は、片足立ちになって滞空して下ろすと言うヤツ……ってこれあれやん!!
うちのアレのアレやないですのん!!
いやいや、当たり前ですけど心意把すでに、小乗仏教の中にあるんですよ。
理論上は当たり前なんですけど、遭遇すると感動しますね。
そしてその姿は、実は様々なところで目にしています。
スリランカの絵やインドネシアの舞踊、ヒンズーの神々の肖像などにみられる片足だちになっている英雄や戦士の姿、あれがそれです。
あれは獅子奮迅している躍動感を表現しているからたまたま片足立ちになっているのではなくて、決まった形式での姿勢でした。
つま先をそらせるというのがその特徴の一つです。
片足だちになったときに、つま先を下に向けるか上にあげるかは明勁と暗勁の違いを示しているという説があります。
出来てしまえばどちらででも出来るのですが、形式で表現するときはそこでも表します。
インド武術からの由来というのがこういうところに出ているのではないかというように思われます。
となると、すぐに現代人はその解釈から復元武術などを作ろうとしそうなのですが、復元武術は創作武術。まったくもってただの偽物です。
それは史料価値はあったとしても、きちんと受け継がれてきた命をとっくに無くしています。
まず間違いなく往時にその流儀をやっていた人が見れば「え、なにやってんだそれ? 基本の基本も出来てねぇじゃねぇか!」となることでしょう。
些細な歩みの仕方や指使いなど、基本の基本にこそ伝わってきているかいないかの違いがまともに出ます。
それは本物の人間に対するフィギュアです。
復元とは複製に過ぎない。複製とは本物では無い物をさす言葉のはず。
そういうきちんと師から習って印可を受けていない物を名前を借りて騙りだしてはいけない。
ただ一つのささやかな何かを確かめるためにさえ、本来は膨大な移動と労力を必要とする物のように私は思っています。
そのような狷介さのためにここまでやってきて、朝から晩までひたすら身体操作や内功の研究をしているのですが、最近は朝、寮の庭で練功している私をどこかで見ていた同じ生徒さん達が、自主参加して一緒に練習してくれるようになりました。
もともと内功などに興味があって勉強に来ている人達です。私がしている気功にも大変に興味をもって取り組んでくれて、それをご自身がされている物とすり合わせるという研究の題材にしてくれています。
やっぱりこの街は面白いなあ。