丹田、という内臓は存在しません。
仮想の重心として設定されているのですが、武術としてはそれだけでよくても、気功や治療などではおそらくそれだけではちょっと足りない部分が出てくるような気がします。
東洋医学、気功の観点においては人間には三つの丹田があり、それらは下腹部、胸、眉間の中とされています。
それらの場所にはでは何があるのかというと、私が習った系統の気功の本には、空間があるのだと言います。
臓器と臓器や、骨格や軟組織の空白地帯があるのだと言うのです。
その場所が丹田と呼ばれる場所で、その空白に働いている周囲の圧のバランスがあるからこそ、そこは重心として働くということなのでしょう。
何も無い場所がある。だからこそ重要なのだ。というのはこれ、まさに荘子の思想の具現と言ってもいい感じです。
空白にただ力のバランスのみが働いているのだとしたら、これは確かに非常に尊い物のように思います。
そのブランクに内側の力の拮抗が集まるバランス点があるのだとしたら、そこを操作出来たら確かに全身の操作に重要である訳です。
バランスというのは、なにがしかのことを熱心にやればやるほど集約されてくる。
これはある意味で功でもあるがゆえに「固まる」ということでもありえます。
ルーシーダットンというのは、そのような練功によって固まった物をある意味ほぐすための対策なのだと言います。
そう考えると本来それ自体はあまり辛くないかもしれないという気がしてきますが、講師になるためにそればっか延々何時間もやってるとさすがにしんどい。
そうやってしんどいことをしているうちに感じられてきたのが、勁を使って立っている自分の体の内側が解体されてくるということです。
勁を使って体を支えられないとなると、今度は求められてくるのがバランスです。物理的な重心の調和によって釣り合いをとらないといけない。
そうなってくるとこの釣り合いを取ると言うのが非常に難しく出来ている可愛がりの要素が非常に多いことが見えてきます。
作った物をこうやってほぐして、また作ってをして行くことで、我々武術家には一層よい調和が築かれてゆくのではないかという気もします。