レッド・バロン。
この名を聴くとおひげの紳士の顔が浮かんでくる人が多いのではないでしょうか。
国道沿いに沢山あるオートバイ・チェーンの看板ですね。
あそこで描かれているのが、ドイツの軍人、レッド・バロンの姿です。
彼は現在で言うポーランドの男爵家に生まれて、家庭では非常に厳しく軍人としての教育を受けたそうです。
その後、軍人学校に入り、卒業後は槍騎兵隊に配属されました。
筋金入りの騎士の育ちです。
ここまでの間にキャリステニクスでしこたま鍛え上げられていたことは間違いないでしょう。
この、騎士を育成する教育制度というのは中世ヨーロッパを通してあったもので、古代スパルタのアガクなどにもルーツが見られるのですが、一度は廃れた物の十字軍の時代に復興、中東の厳しい戦士教育制度を取り入れて再興した物だといいます。
その中で、キャリステニクスも取り入れられて訓練制度として発展したというお話があります。
現代のような単に事務職や通信部などを含めた軍事制度があったわけではなく、みな身体感覚を伝統的な方法で引き出した「武術家」でした。
ポーランドの槍騎兵のことを「ウーラン」と呼ぶそうなのですが、この名の由来はモンゴル、タタールの言葉で「勇敢なる兵士」という意味であるとか、またオスマン帝国の「青年団」を意味する言葉から来ているなどとの説があるそうです。
どちらにせよ、彼らが私たちが発表している、中東、アジアの訓練制度の影響をまともに受けていることが感じられる命名です。
ポーランド、リトアニアの辺りには14世紀からモンゴル、タタール人の進出が進んでおり、ポーランド側は彼らの精強さの秘密を学び、模倣していたという歴史がその理由であるようです。
騎馬を活用し、サーベルや槍、小銃を主兵として活用していたというのは、ヨーロッパに多く影響を与えたジンギスカンの痕跡の一つであるのかもしれません。
だとしたら、これもやはり、伝統アジア武術の伝播の一つの形として研究すべき対象であるように思われます。
ただ、私の専門はあくまで南方でのこの部門の研究ですので、詳細は多数いる北部の中国武術研究家の方々にお任せしようと思います。
話を戻しまして、ウーランはその後、ナポレオン軍に編成されます。
ナポレオンの電撃作戦はジンギスカンの影響を受けているというのは、この辺りの伝播にも現れているのかもしれません。
この歴史と伝統のある誇り高い部署に見事入隊出来たレッド・バロンは、そこで第一次大戦を迎えます。
東部戦線で初陣を迎えた彼ですが、そこで一度目の死を迎えることになります。
ロシア領の占領中の村で敵軍に包囲をされ、そこではぐれてしまったのです。
単身帰宅したときには、家族は弔問客を迎えていたという、ちょっとトム・ソーヤ―のようなエピソードがあります。
この時の彼の役割は、敵情視察だったそうです。
大部隊に居るのではなく、少数ないし単身で最前線を行き来するという、大変に危険で勇気の必要な役割です。
日本でも、母衣衆などが尊敬されているのはこの己の機動力一つを頼みに多数の敵が潜む死地に飛び込んでゆくという職務のためでしょう。
この、単身、自分のみが頼み、というところが彼のこの後の人生に引き継がれることになります。
つづく