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Channel: サウス・マーシャル・アーツ・クラブ(エイシャ身体文化アカデミー)のブログ
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自分の言葉

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 ある、有名女優さんがラジオで話しているのを聴きました。

 大手事務所のオーディションでグランプリを取って、国民的な若手女優としてもう二十年近くやってきた有名な方です。

 そのキャリアのため、大物の印象があったのですけれども、話している口調はとてもフレッシュな感じで、まるで最近メディアに出始めた女性のような感じだったで意外に思いました。

 しかし、その後の話を聴いて納得した物です。

 というのも、彼女は子供の頃からラジオが大好きで、ラジオで話すお姉さんになりたかった、というのですが、15でデビューして自分で番組を持てるようになったのは良い物の、非常に違和感があったというのです。

 大手事務所の看板女優ということで、いい加減なことは喋れず、自分の役割をまじめに果たそうと一語一句にすごく気を使っていたのは良いと思うのですが、どうやら生来のマジメさとプレッシャーが入り混じってしまったらしく、マネージャーさんに一言一言を相談してダメ出ししてもらうような形で話していたそうなのですね。

 そして、ここからが面白いところなのですが、そうして話しているうちに、その話す言葉に見合った感性にもその感覚はさかのぼっていって、とうとう自分が何をどうかんじる「べき」なのかというところまでに至ってがんじがらめになっていったそうなのです。

 それは、とても苦しいことだったと彼女は言っていました。

 それが八年続いて、担当のマネージャーさんが変わったときに、いつものように自分が話すことを書きだして一語一句チェックしてもらおうと思ったところ新しいマネージャーさんに「そんなことはしないで自分の思ったことを話せばいいよ」と言われたのだそうです。

 その時に初めて、彼女は自分が自分を見失っていたことに気が付いたのだといいます。

 しかし、すでに自分が誰なのかがもう彼女の中ではうまく見いだせなくなっていたのだと言います。

 その後、彼女は長期の休みを取って、一人で外国に行ったのだそうです。

 そこで、ほとんど言葉も話せない環境で、自分が誰かを知らない人たちの中にいるうちに、改めて他人と自分の言葉で話すと言うことを再構築する経験をされたそうなんですね。

 それを通して彼女は、自分の言葉で話す、ということをとても自覚的に確立されたようです。

 だから、彼女の言葉は、とても生き生きとした感性があり、良くも悪くも少し未成熟な感じさえする新鮮さがありました。 

 時折感じるたどたどしさのような物は、ちゃんと自分で自分に向かい合いながら出てきた言葉なのだと思うのです。

 人間を、バカにする方法として言われているのが、自分の言葉で話させないことだというのを聴いたことがあります。

 そうすることで、感性と思考が薄れて、支配されやすい人格になってゆくのだと言うのです。

 私にも縁が深い川崎市で、ヘイトスピーチに対して実刑を求める方針で自治体が動いています。

 私自身、ヘイトスピーチをしてるようなヤツなんて、完全に頭がどうかしちゃってる奴で、惨めさを他者攻撃に転化するという嫌になるくらい凡庸な精神の薄弱さを改善するためにさっさと医者に掛かるべきだと思うのですが、この自治体の方針が、変に先手を取るような形にならないかという危惧を感じてもいます。

 後から罰を与えるのは良い。

 しかし、発言を封じるような方向に行くべきではない。

「アヴェンジャーズはいつでもやり返すだけだ」

 というのはアメコミ映画の中でヒーロー同士が正義の方針を巡って口喧嘩をするシーンのセリフですが、恐らく公正さというのはいつでも後手に回らざるを得ない。

 事前に当たりを付け、監視し、制御するのは支配であり、そこから民族や性、その他多くのマイノリティに対する差別が始まるのではないでしょうか。

 いつも後手に回るのは効率のよいことではありません。

 しかし、効率を中心とした工業主義が、歴史上差別や多数による暴力を生んできたのでは?

 一人一人が自分の言葉で話すというのは、効率と逆行するところがあります。

 自分の言葉には責任が伴います。

 愚かな発言をした人が「馬鹿かお前は」「黙れクズ」「それがお前の人間性か恥知らずの低能が」「惨めな奴だな、親の顔が見たいぜ」などと石を投げつけられるのは、個の責任の元に行われることだと思いますが、初めから口を閉ざさせるのは非常に危険なことです。

 言葉を探す努力を辞めると、気づけば自分の中に言葉が無くなっていることがある。

 言葉が無いところに、既製品の借り物の言葉を当てはめると、本来はそこからはみ出る感覚があったはずの物が取りこぼされてゆきます。

 本当は、そのこぼれるところが自分自身の言葉であって、それを表現するために思考するところが自分と言う物を作ってゆくのではないでしょうか。

 言葉を封じることは、自己の確立を阻止します。

 自分自身で自分に責任を持つということを学ぶのも、自分の言葉で話すところから始まるのではありませんか。

 そうして叩かれたり躓いたりして、言葉を自分を洗練していく。

 それでこそ、本当の人間性が確立されて、そういった人々によって社会が構成されてゆくと、とても成熟した世の中が作られてゆく気がします。

 日本社会は、これまでそれとは真逆の物を作ってきたように思います。

 鬱屈した人々の多くは、みずから自分の言葉でない借り物の言葉を大喜びで拾い集めて、身体の中に押すとそれを言うスイッチがあるかのように連発している。

 同じアニメを見て、同じタピオカを飲んで、同じパチンコを打って同じ言葉を発している。

 それは本当に言葉?

 鳴き声との違いは?

 あるいはただの音との?

 初めに言葉ありきと聖書にはあります。

 自分の言葉というのは、人間の魂が決して無くしてはならない物ではないでしょうか。


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