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Channel: サウス・マーシャル・アーツ・クラブ(エイシャ身体文化アカデミー)のブログ
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シナ海海賊武術の歴史 2・明朝

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 南宋が完全に滅ぼされ、元朝が全土を支配に及んだ後、おなじみ、カラーギャングのように頭に紅い布を巻いた紅巾党の乱がおき、それをきっかけに今度は元が滅ぼされて明朝が興るのですが、この紅巾党、実は白蓮教徒が中心となっていました。

 白蓮教というのは、マニ教に弥勒信仰が取り込まれた物だと言われていますが、このマニ教、ペルシャで起きた宗教で、ゾロアスター教やユダヤ教などが混合されたものです。

 この宗教は往時の中国では盛んだったらしく、現在でも福建にマニ教の寺院が遺っていると言います。

 つまり、前にも書いたように福建辺りではこの中東系の文化が非常に広く伝播していたということです。

 そして、その武力を中心として騎馬民族を倒すことで明朝は成立しました。

 つまり、これはある意味で、騎馬、ブフ、弓を中心としたモンゴル武術を中東武術が打倒したとも取れないことはないような気がしないでもない。

 となると、今後中華は中東文化に染まってゆくのかと思われるのですが、そういったことを危険視したのか、建国後、帝は白蓮教を弾圧して滅ぼします。

 その後の明を脅かし続けるのが、北慮南倭、つまり倒して北に追っ払った物のちょいちょい隙を見て攻め込んでくる騎馬民族と、沿岸ぞいを攻めてくる倭寇でした。

 明朝は外国勢力を警戒していたのか、明国領海に外国を横行させない禁海政策を取っていたのですが、これが見事に裏目に出て、マラッカ辺りでとどまっていた大航海時代の西洋勢や、引き続き倭寇に及んでいた日本人たちを結託させてしまいます。

 各国の海賊衆が一丸になって連合軍を組んで攻めてきていたのですから、国難となったのもうなずけます。

 この時に、西洋のフェンシングや、日本剣術、中国武術らの混交が進みました。

 その影響下でタイ武術が現在の形に成立したのもこのあたりです。

 この辺りで戦いの仕方がそれまでと完全に変わり、中国武術が現代に残っているような形に大幅に変えられたとも言います。

 

                                                                        つづく


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