大国難であった大倭寇を凌いだ明朝を滅ぼしたのは、帰ってきた騎馬民族でした。
女真族の清朝が攻めてくるのに対して、明朝最後の抵抗をしめしたのが鄭成功率いる鄭家海軍です。
これは福建省にアジトを持つ軍閥なのですが、実態は海賊です。
この一団を継承した鄭成功、父は福建海賊、母親は日本人と言うハーフなのですが、この母親の田川マツさんと言う人、平戸藩士の娘さんです。
で、平戸藩というのは何かというと、これ、松浦士族が拓いた藩です。
覚えておいででしょうか。最初に倭寇を行ったのがこの松浦士族です。
つまり、海賊の末裔のお嬢さんと現役の海賊の間に生まれたのがこの鄭成功なのです。いわば生え抜きの海賊。
血統書付きの倭寇です。
この海賊王子、血統的にはさんざん明朝の屋台骨を揺るがしてきた南倭の末裔なのですが、猛烈な愛国者として清朝と戦い続けます。
国難として四字熟語にされていた「北慮南倭」ですが、北慮VS南倭と言った感じの構図になってしまいます。
彼は大倭寇の結果、海禁の解除を勝ち取って台湾を占領していたオランダと戦闘し、島を取り戻します。
当時の台湾というのは、セデック族と呼ばれる現地民族の人たちの島だったのですが、これによって漢民族が入植してゆき、現在の状態に至ります。
入植して行った鄭家軍の人たちは当然、反清複明活動の人たちなので、台湾は軍事拠点として開発されてゆきます。
この時に、海賊武術が台湾に根付いたと言われます。
もし、鄭成功がオランダ軍を追い払って台湾を獲得していなければ、もしかしたら台湾もフィリピンと同じく、アジアなのに西洋文化が根付いた国となっていたかもしれません。
フィリピンは、台湾に盤踞した鄭家軍の人たちによる海賊行為をちょいちょい受けていたと言います。
それに抵抗するための自衛手段として、スペインが広めた武術がエスクリマのルーツだと言われています。
ここで二つの海賊武術が繋がる訳です。
もし、台湾がオランダ領のままだったら、中国武術の宝島ではなくてエスクリマの土地になっていたかもしれません。