これまでに書いてきた自分の変化とそれに関する見解を、師父にお話しました。
すると、そういうことはある、とのことでした。
そこから、その先のことをお話しました。
実は、上がってくる精気を小周天で循環させるのは問題ないはずなのですが、私はほかのこともしていたのです。
というのも、私は自分の中だけで循環させる小周転の気功だけではなくて、外の気と自分の気を合わせておこなう大周転という気功も行っているのですが、強い精気をこれで頭頂から外に出すと、頭部の法輪に強い輪っか状の感覚があります。
ちょうど、天使の輪っかを被ったような感じです。
見栄を張ったかもしれません。ザビエルの境目の感じです。
そこから気が上に抜けてゆくような感じがある。
気功では人間を気が出入りするフクロのような物だと考えており、全身のツボというのはそのための換気口だと考えます。
頭部にでかい換気口がまた一つ空いた感じです。
これを使って精気を真上の空中に放っていると、なんというか自分が樹になったような感じです。
自分から出た気が世界に広まって循環してゆくことで、世界のサイクルの一部になったような気がします。
それを伝えると、それは大周転の一つの形だという答えでした。
師父はいつも先に答えを言いません。
行のやり方だけを教えて、私がその結果に起きたことを伝えると「それが○○です。出来たので次のを教えましょう」という感じです。
なので、気功の間違えでありがちな自己暗示による捏造というのが出来ません。
あらかじめ師父の中にある答えに合致したことが起きないと功が進んだとは解釈されないからです。
今回、精気による大周転で空とつながり、空とつながったことでその後に自分が上げた精気がいずれ振ってきて地に降りる気がすると言ったところ、世界中の、山に籠っているようなマスターたちはそのような物だと思うと教えてくれました。
そうやって、自然の気を吸収してそれを自分の精と合わせて錬精し、自然に還す。
これはタオの考え方からすると非常に理にかなっています。
もし、そのように大きな自然の循環の中に自分が繋がれたのだとしたら、それはとても素晴らしいことです。
師父はそれを教えてくれた上で、自分が拳法を打つときには三つの要素があります、と言われました。
一つは、武術の練習として。これは当然のことです。
もう一つは、気功として。
これは、本来の中国武術が気功の行であることを想えばやはり当然すぎることです。
そして最後は、祈りとしてだと言いました。
これにはアッと声を上げました。
私はそのように考えたことはない。
仏教の修行として伝わってきた拳法を、天人合一に至る無我の物として行ってきました。
慈愛や祈りという自我さえ無いところを由としています。
しかし師父は、拳を打ちながら、世の平和を願う気持ちが真実になるようにと願いを込めて真摯な気持ちで練拳をしているのです。
私が物思わぬ樹木のような物となることを至上としている一方で、師父は人として丁寧に生ききろうとされていました。
これは、本当にすごいことです。
私のように一人小乗の解脱を目指すのではなく、あえて人の世に身を置き、人として正しく生きようとしている。
このような想いの具体として行うのが、我々の行う身体の行です。
あらためてその価値を痛感し、本当に良い物を与えていただいていると感じ入りました。
私たちの気功では、気のことを風に例えることがあります。
外の世界に吹いている様々な風が、自分の中に入ってそして吹き抜けてゆく。
その風から力を得て、影響を受けて命というのは燃えてゆくのです。
私の中には、自然界のすがしい秋風と一緒に、師父から吹いてくる風が通っています。