気功において大きな変化が起きたときには、常に間違ったことではないかを検討することが重要です。
そもそもがエゴを肥大させることを目的に行っている人は変化に有頂天になってこれを見失い、結果すべてを悪い方にしてしまいます。
あまりにも多くの人がそのようになってしまう。
きちんと伝統的な指導を受けたり、常に自分が間違っているのではないかと注意を計らったりすることが、甘やかされた現代人には難しいのかもしれない。
精気を用いた大周転を行うことで、精がすべて散逸されたりはしないのかと師父に尋ねると、一応しないということにはなっているということでした。
師公の教えをひもとけば、古典ではそのようにして持てる気の全てが体から抜け出ることで、肉体から解脱するとあります。
なるほど。身体から気が枯渇すると言えばするのですが、この場合その時には本体は抜け出た気の方になっているということになっている。
これは、現代的な物の考え方からすると直接的な理解はしがたいところがあります。
オカルトマニアや惨めな自分から現実逃避をしたいだけのオタクならこの考えにすぐに飛びつくのでしょうが、それこそがエゴの肥大を目的に行っている以外の何物でもない。明らかに間違ったことなので注意が必要です。
あくまでも、昔の人はこういった現象に関してそのように考えたのだな、という参考にとどめるだけの冷静な学問への向き合い方を大切にしたいところです。
効果に夢中になることは堕落への一本道だと師公の本にも書いてある。
そのようなことを師父と話していると、不意に「生徒さんみんながあなたのようだったらいいのに」と師父がつぶやかれました。
これはうれしいことです。
そういえばその前の日にも、フィリピンのマスタルとメッセンジャーでやりとりをしていたら「それにしてもお前もエラい人間だな」と物珍しがられました。
確かに、こういう人間はそんなに居ないのかもしれない。
気功的にかなった生活をするために、寝てるとき以外はほとんど外にいる暮らし方を選んでいます。
これは師父が修行時代に世界を旅していたころに出会った人たちに共通で見られたもののようです。
それと同じ環境に身をおいて、いつも空の下に居られるライフスタイルを選び、常に風を浴び、自然の変化を感じ、それらがもたらしてくれる喜びを味わいながら毎日を生きています。
少し昔の人達からすれば当たり前なその生き方が、いまの日本人には珍しい物であるとは思われます。
漁師さんや、農家の人でもないと、中々こうはいかない。
東南アジアの人達などは、自分の家や営んでいるお店と行っても、壁が無く吹き抜けでほとんど野外に天井だけ作ったようなところである場合も珍しくありません。
そういったスタイルなら、空とつながった暮らしがおくれるかもしれない。
インドから起こり、中国で発展した気功と言う物は、そのような生活環境の中で伝わってきました。
その原点に寄り添うことは、地味すぎて目立たないことのようですが、重要なことのように思います。
また、私は一人仕事で一日中ほとんど他人と接さず口を利かないことも大きいのかもしれない。
師父が行っていたような、隠者のような暮らしをして空に精気を送っているマスターたちと言うのも、おそらくはそういった環境にあることでしょう。
現代人はあまりにも人間というものにへばりつきすぎている。
先日読んだ中国を舞台にした時代小説にも、正しい物はただ一人でまっすぐ立つが、邪な物は他の物に絡みついて存在するとありました。
これは非常に中国的思想の示唆に富んだ描写であると思います。
空の下、ただ一人立てる人間であることを由とするところから、大道を歩む第一歩が始まるのかもしれません。