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Channel: サウス・マーシャル・アーツ・クラブ(エイシャ身体文化アカデミー)のブログ
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正道

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 唐の時代のお坊さん、義浄さんを描いた小説、義浄征西伝が面白いです。

 

https://www.amazon.co.jp/海遊記―義浄西征伝-仁木-英之/dp/4163299106


 この方は唐玄奘三蔵法師の頃のお坊さんで、お寺で育ったようです。

 そのあたりを描いた部分では、私が習ったような、武術や学問を学んで世のためになる人となって具体的か力を持って救世を行う当時の仏僧の姿が垣間見えます。

 そうやって学識を積んで遊行に出て、困っている人や都市に力を貸して旅をする訳ですね。

 義浄さんは育ったお寺を出て長安の都に玄奘三蔵法師を尋ねるのですが、そこで愕然とします。

 確かに人々を救う仏典は天竺より持ち帰られており、いままさに翻訳の最中なのですが、人々はまったく救われていない。

 当時の長安は世界最大の国際都市です。

 様々な国の人々が行き交い、商業でにぎわっているのですが、人心はまったく救われていません。

 物質的な繁栄と、人心の荒廃。

 これはまさに今の日本社会と同じではないでしょうか。

 いえ、それどころか、これこそが古代のインダス文明や黄河文明の時代から続く問題です。

 文明が発達し、物質に満たされても、人の心は救われない。だからブッダや老荘の哲学が生まれたのです。

 義浄さんが打ちのめされているまさにその時、玄奘三蔵法師が亡くなります。

 このため、法師に面会して直接本場の仏教の真髄を与えられたいという義浄さんの願いはかなわなくなってしまいます。

 結果、義浄さんは思います。

 いまの唐はこれだけ仏教が普及しているのに誰も救われていない。これは正しい本場の仏教が伝わっていないからだ。ならば天竺に行ってそれを持って帰ってくるしかない。

 あんた私か。

 私も、本当の中国武術が日本においてまったく知られておらず、まるで人心を救っていないという虚栄の現状を憂います。

 これをどうにかするためには、その伝播の経緯を自らたどって学んで持ち帰るしかない。

 いつも言うことですが、本物の武術と言うのは勝ち負けや強弱に囚われるための物ではない。

 また、技術に耽溺するなど上っ面の上っ面も良いところだ。

 その先に行かなければ、真髄には触れられていない。

 他人と比べて悦にいるというのは、自分が勝ったと思っているその他人に依存しているということではあるまいか。

 自分に負けてくれる人がるから初めて一抹の安心を得られて今日を生きられるというような虚弱さが、武術の真髄であるものか。

 義浄征西伝の作者の別の作品に書かれているように、善は一人でまっすぐに生きるが邪はツタのように他者に絡みついてはじめて生きられる。

 自分一人で天地の間に立つための学問が武術であるはずだ。

 その真伝は、人が生きるということを救済する物だ。

 とはいえ、人間には各や相という物があります。

 誰もがもっとも難しい物を学べるとは限りません。

 それが必要だとも言えない。

 現に私は、武術によって人生が大いに救われましたが、それは決して最も難しい武術によってではありません。

 これは、仏教の一部として行われてきた武術による人心の救済という物の、一つの難しい課題です。

 というのも、仏教という物そのものが、自ら立って生きるための哲学として成立したにも関わらず、それを理解するだけの物に恵まれなかった人々にとっては信仰として受け止められてしまったからです。

 これは中国仏教のもう一つの面でもある、老荘思想が「天に仁なし」と宗教を否定し哲学として書かれたにも関わらず、道教と言う民間信仰にされてしまったこととも呼応しています。

 義浄さんも作中「仏道を歩むものが怪異を語るとは何事だ」と迷妄を恐れる者に一喝をしています。

 喝によって目を覚まし、自ら生きると言うことが中国仏教の一つの特徴であるように思いますし、私もその面を常に意識しているところがあります。

 小手先の技術という目くらましによって、信仰に救われたがっている生徒さんたちを迷妄に引き落とすようなことが、武術と言う名のもとに行われていると言う例があまりに多い。

 信仰の段階が必要な人が居るとしても、それなりに方便として正しく機能する物を手渡すべきではないかという気がします。

 これは武術だけに限ったことではないかもしれない。

 多くのフィットネスや健康法などが、同じカラクリを下敷きに、依存心の強い人間とペテン師の関係でなりたっているかもしれません。

 道に迷った物が巻き添えを求めるようなありさまには決して至るべきではない。

 哲学のレベルの武術を伝えるのは難しい。

 私もいつも苦労しています。

 信仰のレベルの武術を探していま、アジアを旅して学んでいる途中です。

 そのような中で、師父が練拳のおりに、いつも心の中で祈っているというお話を聞いたのでした。

 この課題は、これからもより真摯に検討し、向かい合ってゆきたいと思っています。  

 それが私にとっての人生の一仕事であるのかもしれません。


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