アンイーヴン・プルアップがようやく安定してきたと書きましたが、それまでは思ったよりも上がらない日や、ぶら下がれると思ったらそのまま滑り落ちてしまうということがままありました。
いまは、バーをつかんだ時にしっかりと繋がった感じがします。
これがあれば上げられます。
逆に、それが感じられなければ、バーを拭いて濡れや油を取ったり、あるいは自分の手のひらを洗ったりしたほうが良い。
単純に、不純物の干渉による摩擦の問題であるのですが、ポイントはそれを「つながった」と感じられるかどうかということです。
この、感じるということが実は気功の重要なところなのだと私は考えています。
というのも、常日頃から「気」という物質はないと私は繰り返し書いています。
気とはあらゆる力、物理学的なフォースやエナジーの総称であって、固有の何かではありません。
しかし、気功では確かに「気感」というものがあって、それによって「気を感じる」などと言ったりするのですが、それは気という固有の物質があるからそれを感じるのではなくて、主体である感じている側の感覚の中にそれが存在しているということだと考えます。唯識論です。
法輪、すなわちチャクラが神経叢の場所であるということからも、気功の行というのは感覚を発達させる訓練であると私は考えます。
その結果、神経系が発達し、自分の力をうまく使えるようになる、ということがこの訓練の成果としてあるように思います。
なので、気功の訓練によって片手グリップだけで懸垂ができるようになった、というざっくりした書き方もできてそれは決して間違いはないわけです。
ただ、そこから誤解する人や(自己救済のために意図的に)曲解する人も出るわけで、より私の考えに沿って丁寧に書くなら「気功によって神経系が発達して感覚がするどくなったので、グリップがうまくなり体を操作することもうまくなったので自分の内側の力をうまくつなげて、それをバーともうまくつなげることができて片手のグリップだけで懸垂ができるようになった」ということが出来ます。
これを、「気功で懸垂が出来る」と言っても同じことだし「鉄棒の気と繋がった」と言っても「鉄棒の摩擦力と効率的に繋がった」と表現しても同じです。
やってること自体は変わっていません。言葉は後から表現しているだけで、起きていることは同じです。
別に固有のなにがしかの物質を働かせたりはしていません。
ただ、この気功的な訓練のアプローチと、そうでないアプローチでの体づくりの違いと言えば、筋力と筋量の違いということになります。
気というのは力という意味ですので、気功での訓練で体を作れば、筋肉の量に対して大きな力を発揮することが出来ます。
そうでない訓練をすれば、筋肉の量を増やしてその量分の力が出せるようになります。
だから、気功系の人は一見そこまで大きくない人や年寄りでも大男と同じくらいの力を出せたり、あるいはそれより勝る力を出せたりするのですが、単純に神経系の訓練によって大きな力が出せて、体の内側もうまく使えているということに過ぎないと考えています。
神秘も信仰も必要ありません。
根性も気合も入れなくてもいい。
ただ自分の内側と向き合い、そこに働いている力を感じて、それらを静かに適切に働かせるだけです。
その経緯を通して、自分が何を心地よいと感じるのかに自覚的になり、より心地よい日々を送れるようになるためにこれらのことを行います。
体を自由に動かせるようになることを通して、心と命を自由に生かすことが目的です。