私はホントに福がある。
いつもそう思わされます。
いろいろな所から良い人がやってきてくれるし、なにがしかご飯が食べられる道も与えられたりします。
とはいえこれは、この十年ほどの間に限ってのこと。
それまでは本当に何もかもが悪い方にばかりの最悪の人生でした。
師父のところで生き方をすべて変えてからいまのように人生が変わったのですが、これは師父に言わせると、気功をすると運が良くなる、という考えです。
しかし、これには私は首をかしげます。
確かに、私が行った先の外国で、何の情報もないのに足で探していて自分の流派の系列のマスターたちにいつもたまたま出会えるなんていうのは、あまりに順調すぎるように感じるところはあります。
ですが、それをして「そういう風になっていたんです」というような天命論はやはりうんうんと頷きがたいところがあります。
というのも、タオの思想においては「天に仁なし」と運や天意のような物を否定しているからです。
すべては気の働きである、というのがあるべき考え方なので、何もかもが物質とそこに宿る力の結果に過ぎないと言うのが本道の考え方であると私は思っています。
あらゆることに意味は無く、すべては自分が感じているだけのことである、という唯識の考え方にこそ荘子の考え方の根幹があるはずなので、運命や天命という意味があると言う考え方はどうしても納得できない。
しかし、ことは起きている。
となると解釈の幅という処に答えがあるように感じられてくる訳です。
タオの考え方は処世術として有効性を求められてきたのですが、中華社会におけるタオの役割とは「福 禄 寿」の三つに至ります。
これらの文字を縁起物だとして中国の食器や飾りつけで見たことがあるという方も多いのではないでしょうか。
やはり冒頭に書いた福が出てくる。
これは要するに、幸せである、ということです。
禄とは財産に恵まれるということ。
これもまた、私がなんとなく困っている人を見かけてお手伝いや施術をしたらお礼がもらえるということで私にある物のように感じます。
寿とは長生きです。
気功の健康効果が上手く働けば私は長生きするかもしれません。
うーん。
となると、結果としてやはり気功は福禄寿に繋がると言うことは出来てしまう。
ただ、福というのは後の二つに比べて圧倒的に幅が広すぎる。解釈がいかようにも出来てしまいそうです。
何か具体的に思いついたことというと……口福という言葉がありますか。
美味しい物に巡り合う運ですね。
うん。まぁ、私はなんでもありがたがって美味しく食べるのでこれはあると言える気がします。
艶福という言葉もありますね。
これは……私は独身なのでまぁ罪のない形で、既婚の方よりはあるよりなのかもしれません。
し、たぶん……ある……ような気がする……。
というかこれも、たぶん口福と同じで、私が執着なく、色々なことを少しのことでも喜んでいるから感じるという、受取手の問題のような感じがします。
通りすがりの友達や顔見知りの女の子に挨拶するとがなぜか割にキスされてそのまま通りすがられていくというようなことが起きるのを私は艶福と感じているのですけれども、こんなんは昔の武将が良くモテたみたいな話と較べたらたぶん極めてスケールの小さいレベルでのお話でしょう。
なので、 やはり主観の問題だと感じられる。
とするとこれは、足るを知るという、なんでも幸せだと満足できるタオの思想が気功によって進んでいるからなのではないかと推測できます。
そこから考えれば、運が良くなるだなんだというのもこれのためであろうと言う答えが導き出せます。
健康で幸せを感じるホルモンの分泌が盛んになっているから、なんでも幸せで運が良く感じる。
納得できます。
やはり、天意も幸運も世には無い。
私が色々なところで何の情報もなくても探していた先生に巡り合えて教えを請えるのもきっとただたまたまなのでしょう。
うん。たぶん。