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Channel: サウス・マーシャル・アーツ・クラブ(エイシャ身体文化アカデミー)のブログ
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運動音痴の可能性

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 年末年始となると、だいぶん時間が空いています。

 となると結局勉強するか練習するかとなって、より自分の本質の濃度があがるのですが、それでも時間があるぶん、普段はしないこともしてみたりもします。

 私にとってはテレビでバラエティ番組を見ると言うこともそれで、普段は見ないのだけど知っている番組というのがたまたま目に付いたら観てしまいます。

 なにせ何年もあまりテレビを観ていないので私が見ていた頃からやっている長寿番組のようなものしかそうなると観ることが無い。

 でもって、年末年始と言うのはそういう番組の長時間特番が多いのでエンカウント率が高くなります。

 その中でたまたま、運動神経が悪い人が色々なことをするという企画を観ました。

 これが私が興味のある身体のことであったので、最後まで見てしまいました。

 運動神経が良くないという二十人くらいの芸人やアナウンサーさんが、陸上や水泳などに挑むと言う姿を流していたのですけれども、これっていわゆる西洋体育、学校教育で触れるような運動なんですよね。

 それを、運動神経が悪い人が大人になってから嫌そうに行っていると、やはりどうしても子供時代にいかにして体育が嫌いになったかという経緯の再現のように見えてきます。

 そう見ると、すでに30過ぎの人どころかほとんど40代の人たちばかりの人たちに関しても、可能性と言う面からの見方をしたくなります。

 つまり、元々運動が出来たのだけれども怪我や病気で出来なくなったというのではなくて、いまだ未発達という人達であるので、その伸びしろが私には強調されて見えるのです。

 というのも、同じ運動が苦手な人の中でも、この種目だけは得意という物があったりします。

 水泳が得意だったりダンスが上手だったり。

 となると、それは本当は運動が苦手なのではなくて学校教育の体育という限られた枠の中でメインストリームになっているものがたまたま得意では無かっただけの人です。

 もし、日本でやたらフィーチャーされる陸上ではなくて一年中とにかく泳ぐことがメインの運動能力として扱われている環境でなら、スポーツ・エリートとして扱われていたかもしれない。

 北の方の国ではウィンター・スポーツがフィーチャーされるから、水泳が得意な人は見出されにくいかもしれない。

 また逆に、南の方で運動が苦手だと言われている人の中には、スキージャンプの才能がある人が当然埋もれてもいることでしょう。

 私自身、陸上や野球が苦手だったけど水泳とダンスは好きな子供でした。

 なお、サッカーとバスケは好きだったので、もう十年位遅れて生まれていればもっと幸せな体育人生が送れていたことかと思います。

 なぜか当時は野球ファシズムで、野球以外のスポーツが好きな男の子はもやしっこと言われていました。まったく理屈が通っていない日本人社会らしい状態です。

 そこで馬鹿にされて喧嘩になると無意味にそれは強かったので、男らしい=野球がうまい=喧嘩が強いと同じ意味、という頭の悪い社会観を共有している世の中とは実に相性が悪かった。

 そういう愚かしい幻想を共有している人たちから離れて、本当のことが普通に通る場所で生きたくてこれまで生きてきたのですが、テレビで運動神経が悪いと馬鹿にされているタレントさんたちも、分析すればそれぞれに特徴が見られます。

 タイミングが取るのが苦手な人が居たり、順番を覚えるおが苦手な人がいたり、距離感を図るのが苦手であったり。

 決して一口に「運動神経が悪い人達」とくくってしまうようなことではないように思います。

 にもかかわらず、世の中にそのような概念が広まっているのは、やはり学校教育の段階でそのようなレッテルを貼る対称の人が必要だったという社会学的な部分に理由があるのではないでしょうか。

 運動が苦手=弱い=下層階級というカーストの成立をなすために、そのような決めつけがねつ造されたのではないかと思われます。

 相対的価値観の中で生きると安心をするという大衆の本能がなさしめた物ではないでしょうか。

 現在では私が子供の頃ほどそのような思い込み、決めつけのファシズムは強固ではないかもしれませんが、もしいまでも自分は運動が苦手なのだとか弱くて劣った者なのだと思い込まされてしまっている人が居たなら、お勧めしたいことがあります。

 それは筋トレです。

 私が尊敬する「コーチ」ポール・ウェイドが言っていましたが、トレーニングはすべての子供たちが行うべき物だと思います。

 それは、教室の中で目に見えるだけの物ではない、より大きな成長を与えてくれます。

 人と較べたり結果を手早く求める必要はありません。

 ただ、適切な量を粛々とやるだけです。

 沢山やったり苦痛を覚えるほど行うこともありません。

 一定の負荷をかけてやりすぎないようにコントロールして筋トレを習慣化してゆけば、自然に身体が強くなってゆきます

 上述したファシストたちの生き残りは、トレーニングをしている人に対して「何になりたいの?」「使えない筋肉WW」あるいは「筋肉馬鹿」などと揶揄をしてくるかもしれませんが、そんな洗脳された価値観をコンプレックスにまでこじらせていつまで経っても人の意見に操られているような人間を相手にする必要はありません。

 筋肉が付いてくると、自重を操作することが上手くなってきます。

 自分の重心をコントロール出来ていないというのが、運動神経が悪いタレントさんたちの特徴に多くみられました。

 重力下における時分の姿勢のコントロールが出来ると、さまざまな運動に応用が効きます。

 そしてそうなると、自重を投げて生活していた頃には感じられなかった物を受け取る感受性が発達してきます。

 こうなるとだいぶ人生が変わってきます。

 ほとんどの武術などでは「力を使わない」「タイミングだ」あるいは「相手の心を利用する」などと言うことを売りにしますが、そこにもまた洗脳されてこじれたコンプレックスの気配を感じてしまいます。

 そんな小手先の技で他人を思うままにして悦に入ろうなどと言う了見からはどこか腐敗のにおいが感じられる。

 なぜなら、他人をけむにまくことは出来ても、それでは自分自身は何も成長出来ていないからです。

 非力な老人や子供でも大男を投げられる、などといううたい文句が成立するようですが、そんなもん非力で不健康な人間でいるよりも健康な大男のほうがいいに決まってるではありませんか。

 大男には誰しもがなれなくても、健康な肉体と健全な精神があるにこしたことはない。

 別に他人を投げたりなんかできなくていい。

 それよりも非力なままをよしとするような人間に成り下がらないことのほうがよほど重要でああるように思います。

 他人は関係ない。

 ただ、より良い自分を構築し続ける習慣があることが大切であるように思います。


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