宋太祖と王征南の鶴拳の話を挟んだところで、視点を南に向けましょう。
北方で陳王廷が隠棲していたころ、南に勢力を伸ばしてくる女真族と戦っていた一大軍閥があります。
それが、ここでは毎度おなじみ鄭成功将軍の鄭家軍です。
これは陳家溝の騎馬部隊とは違い、海賊上がりの水軍軍閥となります。
元々、倭寇の末裔の福建の海賊の旦那と日本人倭寇の元祖、松浦党の末裔の子女の間に生まれたのが鄭成功将軍です。
この、いわば海賊のサラブレッドである鄭成功将軍は、台湾の地をオランダの支配から奪還し、そこを練兵拠点とします。
この時に、中華の伝統的な海賊勢力を多く吸収し、海賊武術が大いにまとめられたという可能性は充分にありえます。
なにせこれは、それぞれの土着豪族が一門で行っていた〇家拳だけではなくて、それらで鍛えられた義勇軍の人々をまとめて練兵したものなのですから。
一説には、この時の軍閥が洪門勢力のルーツだとも言います。
だとしたら、洪門武術の土台のような物が形成されていたとしてもおかしくはない。
少なくとも、これより前に起きていた嘉清の大倭寇の時に行わていただろう海賊武術を、もっとも直系で受け継いでいるのがこの鄭家軍であると思われます。
結局、鄭家軍は敗北し解体される訳ですが、その時の武術は台湾を初め南方に拡散したのは必然であるかと推測されます。
清朝の長きに渡る支配が終わるころ、この武術は浮上してきます。
反清復明の革命結社が用いていたのが、まさに南派太祖拳のような鶴拳類と、洪門武術でした。
そこに、北方から嵩山の少林拳が合流します。
そのようにして作られたのが蔡李佛拳なのですが、この各地の武術集団を巻き込んだムーヴメントは、中国武術史最大の勢力となる太平天国として集まります。
太平天国は清朝の中の独立国として活動を広げ、蔡李佛拳はその御用拳法として調練されました。
勢力を増した太平天国は北方へと拡大してゆくのですが、そこで陳家溝にも差し掛かったと言います。
つづく