楊輔清が陳家溝で討ち死にしたというのはどうやらただの郷土の言い伝え出会って、真実ではなさそうだと判明したのですが、では相手の方の陳仲(生生)はどうであろうかということに目を向けたいと思います。
彼はその後も義勇軍を率いては戦いを続け、千名以上の首級を挙げたとも、朝廷から表彰の褒美を二度に渡って授与されたとも言われています。
しかしついには同行していた三男の陳鑫と甥の陳水(本当は水が三つ積み上げられた字)を連れた戦場で、水が砲撃を受けて死亡するという経験をすることになります。
これが陳家の家譜にある最後の戦いとなったようで、四年後には六十二歳で逝去したとあります。
死後、英義公と称され、地元では陳英義と言えばこの人のことであるそうです。
この、最後の戦いに同行した三男の鑫は晩年陳家拳法の研究に打ち込み、この門派の初めての書を書き上げます。
それが「陳氏太極拳図説」という物で、これが現在に至るまで「陳氏太極拳」の定本とされているようです。
というのも、これ以前に陳家拳法が太極拳と名乗っていたという記述は発見されていないそうです。
つまり、陳氏拳法ではなくて陳氏太極拳としては、この陳鑫が元祖であるということが出来ます。
これが、のちに南京国術館が成立された時に招聘されて普及してゆくことになりました。
そして二十世紀になり、陳発科という名人が現れて北京で教授を始めて以来、その名声をいまに響かせているという次第であるようです。
つづく