今回のアカデミー賞で驚かされたのは、フォン・ジュノ監督の「パラサイト」が作品賞を受賞したことです。
私は彼の作品がそれほど好きと言う訳ではないのですが、ソン・ガンホは割と好きな俳優で、監督が彼のことを「センパイ」と呼びながら朗らかに話すインタビューから、きっといい空気を持った現場を作る方なのかなと思っていました。
パラサイトがノミネートされた段階で、多くの人が驚いたことだと思います。
監督自身も、外国語長編映画賞を受賞した段階で「今日の自分の仕事は終わったんだと思っていました」と語っています。
それがまさか、二作のスコセッシ監督関連作品を差し置いての作品賞。
受賞インタビューで彼は「自分はスコセッシ監督の映画を観て勉強をしてきました。同じ賞にノミネートされただけでも光栄なのに、そこで受賞ができたのは、スコセッシ監督のおかげです」と語りました。
目上の人を立てる彼の性格がここでもうかがえます。
非常に刺激的な作品を取る一方で、実社会ではこのように穏やかにふるまえるところに、才能と人徳があるように思います。
これは、もう一人の受賞者のアジア人とは対照的なようにお思えました。
それはメイクで受賞をしたカズ・ヒロさんです。
彼の二度目の受賞に対して、マスコミは日本人がアカデミーを取ったと言う切り口からのアプローチをしました。
それに対して彼は「自分は日本人であることをやめてここに来ているので」とそのアプローチを否定しました。
というのも、彼は昨年帰化して、日本国籍を無くしていたのです。
そのことに対してまたこのようにも言っています。
「ずっと悩んでいたことで、もう日本国籍を切ってしまおうと。それで、変えたんですよ。余計なことを考えなくてすむようになったので、よかったですね。新たなスタート、っていうのでもないですけど、大事なことにだけ集中できるというか」
これは以前にアカデミーを受賞した時にも同様のことを発言していたらしく、日本人が受賞したとか日本人がどうだというようなことに大変違和感を覚えていたそうです。
「日本人は、日本人ということにこだわりすぎて、個人のアイデンティティが確立していないと思うんですよ。だからなかなか進歩しない。そこから抜け出せない。一番大事なのは、個人としてどんな存在なのか、何をやっているのかということ。その理由もあって、日本国籍を捨てるのがいいかなと思ったんですよね。(自分が)やりたいことがあるなら、それをやる上で何かに拘束される理由はないんですよ。その意味でも、切り離すというか。そういう理由です」
私が繰り返し、しつこく、読んでる皆さんも下手をすればうんざりしているのではないかと言うくらい語っていることに通じるように思います。
「日本の教育と社会が、古い考えをなくならせないようになっているんですよね。それに、日本人は集団意識が強いじゃないですか。その中で当てはまるように生きていっているので、古い考えにコントロールされていて、それを取り外せないんですよ。歳を取った人の頑固な考えとか、全部引き継いでいて、そこを完全に変えないと、どんどんダメになってしまう。人に対する優しさや労りとかは、もちろん、あるんですけど、周囲の目を気にして、その理由で行動する人が多いことが問題。自分が大事だと思うことのために、自分でどんどん進んでいく人がいないと。そこを変えないと、100%ころっと変わるのは、難しいと思います」。
お釈迦様の言う、求道の生き方、自分の道を見つけてそこに生きることにした人の一つの姿を私は彼に見ています。
「自分が何をやりたいのか、何をやるべきなのかを自覚して、誰に何を言われようと突き進むこと。日本は、威圧されているじゃないですか。社会でどう受け入れられているか、どう見られているか、全部周りの目なんですよね。そこから動けなくて、葛藤が起こって、精神疾患になってしまうんです。結局のところ、自分の人生なのであって、周りの人のために生きているんではないので。当てはまろう、じゃなくて、どう生きるかが大事なんですよ」
私と同じく、世界に出ている日本人武術家の人が「海外行くなら絶対に日本の武術が出来た方がいい、一目置かれる」と発言しているのを目にしたことがあります。
その通りなのでしょう。
私もやはりそう感じたことがあります。
いまから二十年以上前、アメリカを半横断しながら武者修行をしていた頃、確かに日本柔術が出来て道場破りのようなことをしていて、現地の人に腕比べで勝ると一目置かれはしました。
ただ、それ以上に自分にとって大事だと思ったのは、旅の最後にロスのホリオン・グレーシーの道場に行きついて、そこでみんなと誠実に練習して柔術について語り合ったときに、日本の古典柔術を否定して、彼らの良さをきちんと認めた時に得られた敬意です。
自分の物に捉われるのではなく、垣根を越えて本当のことに誠実であること。それが出来た時が一番人として一目置かれたように思いました。
いま私は、日本武術を捨ててアジアの文化を掘り下げており、そこで出会った仏教的な身体観という物が求める精神性という学問に取り組んでいます。
カズ・ヒロ氏が言った日本の古いしきたりや考えというのは、実際には明治期からせいぜい江戸期程度の物でしょう。
センパイ、コーハイ、センセイ、と言った、人々を抑圧して社会をコントロールしやすくすうためのいわば方針に過ぎない。
それは思想とは言えないのではないか。
少なくとも、哲学とは私には言い難い。
ジュノ監督のように、その中で軽やかに立ち回って己を立てる人もいます。
かたやでカズ・ヒロさんのような生き方もある。
どちらも見習うべき偉大な求道者です。
二人は違うように見えても、実は同じ何か、おそらくは封建的なシステムのような物に抵抗しているのではないでしょうか。
そしてそれは、コーハイにセンパイ風を吹かせようとしたり、若いものの意見を権威でごまかして真実から目をそらしながら既得権益にしがみつくすべての人の慢心の中にある物ではないでしょうか。
少なくとも、仏教武術が目指した物はそこには無い。
一人一人が一つ一つ別の肉体を持ち、そこで一つの宇宙として自立して向上してゆく道を提示することが出来た時に、初めて本物のアジア武術は哲学たりえる。
私はそう思っています。
システムの奴隷になるような一目の置かれ方は、私が学んだ物の中では必要がありません。