この先、ネタバレを含みますので危機感を感じた方は迅速に退避ください。
以前に、アカデミー賞ノミネート作品についての見解を書きました。
そこで、アメリカ史における戦争という縦糸があるなという見立てを書いたのですが、先日「フォードVSフェラーリ」を鑑賞してまさにその通りの切り口であったということに驚かされました。
このお話は マット・デイモン演じるレーサーが、最後のレースを走っているところから始まります。
彼は走行中、視界がブラックアウトします。
極限の世界に肉体が付いていけなくなっており、心臓の弁膜が損傷しており、引退しなければならなくなります。
ちなみにこの物語は実話をベースとしており、彼も実在の人物を基にしたキャラクターとなっています。元レーサーで、カーデザイナーとなった人物です。
映画の中でも自分の自動車販売所を経営していて、かっこいい車を自ら顧客に手売りしているのですが、その生活には非常に不満足を抱えていて、高級車を買う素人ドライバーたちを軽蔑しています。
客寄せパンダのような人生に不満を感じながらも、週末にはレースイベントでもゲスト解説者をしていたりするのですが、そこにエントリーしているのが45歳のイギリス人ドライバーであるクリスチャン・ベールです。
彼は優秀な整備工でレーサーなのですが、ブルドッグと呼ばれるくらい頑固で凶暴な性格なので社会生活が上手く行っていません。
彼等二人と同じくらい、上手く行っていないのがフォード社です。
このページではいつも、中産階級の人間を工場の機械のように扱う社会を生み出したきっかけとして紹介していますが、まさにこの作品でもこの「いつでも取り換えが利く部品」と言うセリフが繰り返し出てきます。
その部分がこの時のフォードの問題となっています。
と言うのも、この物語の17年前に、第二次大戦が終わったからだ、と作中でリー・アイアコッカがプレゼンしています。
帰還兵たちは何をするか? セックスだ。とアイアコッカは言います。うちのページらしい感じ!
結果、一斉に子供たちが生まれます。いわゆるベイビー・ブーマーです。
その子供たちが、運転免許を取る年齢になった時代のお話なんです。
戦後に生まれた中産階級の子供たちは、ベルトコンベアーで作られたいくらでも他と取り換えがきくようなフォードの車を買わないんですよ。
彼らが欲しいのはデートに使うためのかっこいい車だから。
それは全部ヨーロッパ車なんですよ。
それで、フォードは状況を打破するためにフェラーリを買収しようとするんですよ。
このフェラーリがものすごくフォードと対称的に描かれててね。
フォードがベルトコンベアーで流れ作業しててそこに馬鹿なボンボンの二代目社長がやってきて作業を止めさせてまでくだらない繰り言で恫喝したりしてるのに対して、フェラーリは一つ一つの作業を芸術家の職人さんがやってる芸術作品なんですよ。
その工房で元レーサーの社長がお茶なんか飲んでて、実にエレガンシア。
で、この買収は完全に失敗するのね。
初めからフェラーリの社長はインサイダー取引でルノーに売る気で、値段を吊り上げるためにフォードを当て馬にしていた。
しかも、フォードに対してフェラーリの社長は「醜い工場の醜い車だ」って本音を言っちゃうのんですね。
これでフォードのバカ社長は怒っちゃって。
復讐のためにフェラーリの花舞台であるル・マンでやっつけてやろうとして、社内に専門のレースチームを作ります。
その責任者として雇われたのが、マット・デイモンで、彼がレーサーとして引き抜いたのがクリスチャン・ベールなんですが、このクリスチャン・ベール、元イギリスの兵士で退役した英雄だったたんですね。だから勇敢で一匹狼で、平和な社会と適応できていない。
この二人はつまり「真実を知る生き方を人」たちとして描かれます。
それに対するのが、全然フェラーリじゃなくて、そういったことを知らない「交換可能な部品として生きてきた人」たちであるフォードの社長や副社長なんです。
彼らは自分たちの都合でチームを起こさせたくせに、アホだから自分たちで足を引っ張ってばかりいます。
まさに中華的な、我が家の安寧のことばかり考えている小人たちなんですね。
途中、そのボンボン社長が考えが改めさせられるシークエンスがあるんですが、それがマットとクリスチャンが開発したレースカーに相乗りをさせられるシーンなんです。
社長は自社製品をどれ一つ試したるか、と言った感じで乗るんですけど、真実が分かっているカーメカニックたちは「初めて乗った奴は大を漏らす」って呟きます。
本当のレースカーってすごいらしいんですよ。
昔、レーサーの片山右京選手が、ある人に「僕才能ないんです」って悩みを聞かされた時に「大丈夫、F1レーサー以外は人類みんな才能ないから」と答えたそうです。
F1って、要は落下速度で走ってるらしいんですね。
そんなのハンドルやブレーキで微調整できるなんてのは確かにすごい才能です。
ル・マンの車がそこまでではないのでしょうが、それにしても一般人が想像できる世界ではない訳です。
助手席に乗せられて全速を出された社長は泣き喚いてしまいます。
泣きわめきながら「知らなかった! 知らなかった!」と何も知らない人間らしく子供みたいに叫びます。
これを観てちょっと溜飲が下がるのですが、それに次いで彼は「おじいさんにも教えてあげたかった!!」と言うんですね。
ただ怖くって泣いていたのではなくて、真実の自動車の世界に感動していたんですね。
このように、取り換え可能な部品だと思って人を扱うような工業社会の人間と、真実の世界を知っているいわば取り換えの利かなさを知っている人たちのギャップというのがこの作品では描かれてゆきます。
クリスチャン・ベールはテストドライブのサーキットで息子に語ります。
「あそこに目印がある。あのカーヴの先に、最高のラップが存在している。分かるか?」
求道者にしか分からない世界があるということを言っているのです。
息子が分かる、と応えると「わかる人間は大丈夫だ」と彼は言います。
真実を知り極限を目指す主人公二人の敵は、フェラーリの社長やその芸術作品と一つになることを知っているイタリアのレーサーたちではありません。
ひたすら小さい世界で足を引っ張ろうとしてくる小人です。
物語の最後、レースを終えたクリスチャン・ベールは言います。
「回転が7000を超えて、スピードが270キロの世界に入ったころ、後ろから静かにそれがやってくる。そして俺に尋ねる。お前は何者なんだ? と」
求道とは、その問いに向き合い続けることを生きて行くということなのではないでしょうか。
私がいつも伝えようとしている、古典の身体文化、伝統武術の哲学の世界とはそのような物であると思います。