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Channel: サウス・マーシャル・アーツ・クラブ(エイシャ身体文化アカデミー)のブログ
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 アメリカではトランプ大統領による緊急事態宣言が発令されました。

 日本でも同様の宣言が出ることが推測されており、その具体的な内容への法改正案が提出されたそうですね。

 そうなるとこれまでのような自粛要請ではなく、法的な規制が用いられるようになるため、基本的な人権に十分な配慮が必要になるということが問題視されているようです。

 それに先んじて、マスクの高額転売の規制が始まっていますが、これに関してもどうように基礎的な権利への干渉であるということも言えるのでしょう。

 阪神大震災の時に、ソーセージ一本500円で売っていた奴や、昨年の台風災害の現場で家屋の修繕と称してブルーシートを掛けるだけで200万円を請求していた業者、また逆に、デマに踊らされてトイレットペーパーを買い占めしていた人間なども、実は大同小異で同じ類の人間なのではないかという気がしてなりません。

 偽物武術を売る人間も同じ。

 それを薄々わかっていて消費する人間も同様。

 結局はみな、世の中に真実があるということから目をそらし、自分の表層の気分のような物さえ取り繕えていればそれで満足であると言う行動原理の人間なのではないでしょうか。

 最近読んだ本に、後戸の神という物についての著述がありました。

 これは、天台宗の阿弥陀信仰に付随するものだそうです。

 本尊である阿弥陀様の裏に祀られていることからこの名で呼ばれているそうで、仏教で三毒と呼ばれる貪瞋痴が信仰対象となった物だと言います。

 貪瞋痴とは、貪り、怒り、愚かさの三つで、これら三つの毒が人の中からわき出して苦しみとなり、ひいては世に垂れ流されることで世の中を毒するものだと言われています。

 我々仏教武術を行とする物からすれば、これらの毒から身を修めることが一つの大きな目的となります。

 しかし、それらを祀るとはどのようなことでしょうか。

 これが、祀ることでそれらを落とすと言うこととは少し違うようなのです。

 三毒と言う煩悩こそが人間の正覚であると考え、そこに誠を持つことが悟りに通じるという考え方であるようなのです。

 これは、実存主義ではありませんか。

「もし君が本当に人を殺すべきだと思うなら、それは実際に殺すべきなのだ」と説いたニーチェと同じ考え方であるように思います。

 人がその人としてまっすぐに生きようと言うなら、持ち前の魂の形に誠実であるべきだという考え方は、私にはなぜかよくわかる気がします。

 悟りの形は、生まれ持った物や生まれてから起きたことによってそれぞれに違うということはあり得るのではありますまいか。

 かたやでそれらを捨て去ることで悟りに至るといい、一方でその業のような物にまっすぐであることで悟りにも至りうると考える。

 実に興味深い陰陽関係です。

 だから、表である阿弥陀如来に対して、その裏にある後戸の神と呼ぶのでしょう。

 それらが一対であることに奥深さを感じます。

 陰陽と言いましたが、実にその通り、この発想は日本的な形式主義の物ではなく、大陸的な思想に至ります。

 タントラであるとか、道家における房中術の思想と同様に、日本でも性交をもって悟りに至ると言う信仰がここから現れてきます。

 一般には、真言密教立川流として知られる物なのですが、実際にはこの呼び名は間違いで「彼の法集団」とあいまいな呼ばれ方をする宗派であったというのがより正しいようです。

 興味本位に取り上げられがちなこの思想ですが、まさしくいま我々が行っている物がこの思想の行の実践でもありますし、一般に知られている気功というものは本来老子に帰結するので同様となります。

 老子は陰陽思想が性交を具体としていることを明文化しています。

 もちろんこれらは、ただ思い付きでその場がた適当なことをしていればよいという思想ではないはずです。

 少なくとも、後戸の神や実存主義というのはそういうことではないはず。

 そこには、自らの業、性と言ったものを自分で受け入れ、それに対して誠実の限りを尽くして生き尽くすというある種の苛烈さがあるように思います。

 私の師父や大師は、このことを教えてくれました。

「お前は何をして生きてきたのか」

 その質問に対して納得が行く物を見つけなさいということです。

 そこには無責任な形式主義が入る余地はないように感じます。

 自分自身の痛みや醜さ、傷や罪への全面的な責任があるのではないでしょうか。

 それが、誠意をもって生きるということではないでしょうか。

 自分自身と、現実に対する誠意です。

 それは、誤魔化しや取り繕いでは至れない。

 武術の極意は誠であると言います。

 悟りに至るための一つの手段としての武術というのが我々の行っていることの本題であるなら、これは当然の帰結であるように思います。


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