後戸の神信仰に触れて、人間の性や業を認めるということについて話したら、どうしても続けてお話しないと居られない経典があります。
それは、理趣経という密教の経典です。
あまり聞いたことのないという人がおそらくは多いことかと思われます。
しかし、このお経に関するエピソードは多くの人が聴いたことがあるかもしれません。
昔、唐から帰った空海の元に、最澄法師がお経を借りに行っていた物の、ある時から貸せ貸さないでもめ事になって不和になったというお話を読んだ方は多いかと思われます。
この時の、貸せ、嫌だ、となった経典がこの理趣経です。
これは南インドで作られた物で、チベット仏教に受け継がれたと言われています。
その内容はというと、多くは密の修行法であって門外の者には当然理解が及ばないのですが、理趣経と言えばこれだと言われている物に十七清浄句という物があります。
これは行のやり方ではなくて教えを直接言葉で示したものであり、十七個の漢訳された言葉から出来ているのですが、その初めの八つまでは以下のような物となります。
- 妙適淸淨句是菩薩位 - 男女交合の妙なる恍惚は、清浄なる菩薩の境地である
- 慾箭淸淨句是菩薩位 - 欲望が矢の飛ぶように速く激しく働くのも、清浄なる菩薩の境地である
- 觸淸淨句是菩薩位 - 男女の触れ合いも、清浄なる菩薩の境地である
- 愛縛淸淨句是菩薩位 - 異性を愛し、かたく抱き合うのも、清浄なる菩薩の境地である
- 一切自在主淸淨句是菩薩位 - 男女が抱き合って満足し、すべてに自由、すべての主、天にも登るような心持ちになるのも、清浄なる菩薩の境地である
- 見淸淨句是菩薩位 - 欲心を持って異性を見ることも、清浄なる菩薩の境地である
- 適悅淸淨句是菩薩位 - 男女交合して、悦なる快感を味わうことも、清浄なる菩薩の境地である
- 愛淸淨句是菩薩位 - 男女の愛も、清浄なる菩薩の境地である
私が普段から書いている、気功や房中術の考え方そのものの内容です。
うちの直接の系列で言うと、謝明徳大師から伝えられている房中術の考え方です。
房中術というと日本では誤解されてセックステクニックのように言われがちですが、実際は肉体が自然に持つ生命の繁殖力を自己向上に向ける気功のことです。
その誤解の始まりがこれである可能性が高い。
と言うのも、鎌倉時代に派生した性愛を持って悟りへの道とする密教系教団が根幹としていたのがこれだと言われているからです。
おそらくはそこで行われてた行が、単なるテクニックとして後に面白おかしいゴシップになったのでしょう。
こういったセンセーショナルな捉え方をされがちな経典ですが、つまりは冒頭に書いたように人間の業や性の肯定であろうと感じるのです。
だからこそ、それら煩悩を捨て去る阿弥陀如来の裏に陰陽で対になって祀られていた後戸の神から想起されたのです。
十七清浄句の性に関する捉え方は、私がここで記事を書きだした何年も前から書いてきた、チベット仏教の交合仏や、インドのカーマスートラ、また老子の陰陽思想において伝えられていることです。
生命の根本にある力、命の根本の力についての重要な教えです。
十七清浄句の残りの九つでは、性に関することだけではなく食や耳目の感じることすべてへの肯定が書かれています。
その上で総論として解釈されているのは「欲の是非は欲そのものにはなく、それらを誤った方向に向けたり自我に囚われる場合が問題なのだ」と言うことだそうです。
ほら、いつも私が自我を武術や気功を持って正せたらと思っているということと同じでしょう?
そして曰く「そういった小欲ではなく世のためを思う大欲を持ち、生死を尽きるまで生きること」だとウィキペディアには書かれています。
これは、前回の最後に書いた羅大師の教えとそのままつながります。
仏教武術とはすなわち、このような物であるというお話です。