さて、前回では若草物語が資本主義の話であると言うことまでを書きました。
四姉妹のいわば「成功例」である叔母様は、彼女たちに「裕福な男と結婚することが幸せなんだ」と語ります。
彼女自身が独身であることが凄みを感じさせますが、同時にこれは、資本主義社会におけるもっとも平坦な生存論となるわけです。
素敵な舞踏会にご招待されたい、素敵なレディになりたい、というのはその裕福な男を捕まえるための手段です。
実際に映画の中でもお見合いパーティとして舞踏会は機能しているように描かれています。
その、裕福な男性の象徴が四姉妹の向かいの家に住む幼馴染のテディ君なのですが、彼、映画ではニートとして描かれています。
なので、子供の頃には楽しい仲間だったというに、大人になってからは生存のためにガツガツとレディを目指している肉食向上心高い系女子であるエイミーに、何者でもないとして思い切り軽蔑されたりしています。
そう考えるとエイミーの鼻に洗濯バサミをつけて可愛くなっていい男を捕まえたいという思考は、いまでいう美容整形と取れる気がします。
つまり、そういう人達の結構生々しくてがちがちな話なんですよこれ。全然ほんわかした話じゃないんですよ若草物語って。だからきっと女の子たちの心をつかみ続けるんだと思いますよ。
その、レディ射幸闘争から脱落してしまったのが「素敵な舞踏会にご招待」を夢見ていた長女のメグです。
彼女はうっかり、本当に恋に落ちてしまう。
お金持ちじゃなくて、恋に落ちた男と結婚しちゃうんです。
メンターの立ち位置にいるおばさまは「あの子は駄目だ」とこれによって彼女を落第させます。
もし若草物語がほんわりした物語だったら、それでも愛のある生活に彼女は満足すると思うんですけど、そんな甘い話じゃないんです。
結婚して子供を二人産んだ彼女は、貧しい生活に追い詰められて自分には支払えない高額なドレスの発注をしちゃったりするんですね。
そう。ストレスでカード破産するタイプの女なんですよ彼女は。
すっごいでしょ?
資本主義ってのがどういうことなのか、人間をどういう風にしちゃうのか、もうきっちり描かれているんですよ。
作家になりたいジョーは、この時代の勇ましいヒロインとして小説家として自立して成功しようとしています。
一見まっとうなようなんですけど、結局は金とステータスっていう、やはりものすごく資本主義的な話なんですよ。
いや、芸術家としての魂が、という風に取るべきだと思うでしょう?
そうじゃないんです。
この映画では、冒頭では新人作家としての弱い立場で彼女が描かれているのですが、ラストでは成長のあかしとして編集者とお金の交渉が出来るようになっていて、作家としてのポリシーを高額で売りつける様が「勝利」として描かれます。
やはり、資本主義下での生存、という話なんですよこれ。
生々しいしえげつないなこれ、と。
四姉妹がどうやって金を稼いでみんなを食わすかって役割と向き合うかの話なんです。
結局、誰かが金持ちになれば姉妹みんなが食える。
遠くの奴隷を踏み台にして身内が幸せになろうっていう資本主義の根本姿勢がものすごく見て取れます。
そして、その役割を果たす弟子をおばさまは見つけようとしているのですね。
その意味での最も落第生なのが、三女のベスです。
「いつかきっと」の歌の中での彼女のパートはこうです「いつかきっとわたしにも、好きなだけピアノ弾いてられる日がくるわ」。
彼女は欲が無い。
みんなが自分たちの家のお金のことばかり考えているときも、一人だけで貧しい隣人の家に食べ物や毛布を届けに行っています。
その結果、彼女は貧しい家の子供がかかっていた伝染病に感染して死んでしまいます。
そう。
文字通りの生存競争のお話で、そういうことをしてるこは生き残れないのですよ。
この件があって各自姉妹が本気になって、売れる原稿を書いてお金を稼ごうとしたり、一度は断っていた婚約を受けなおしてお金持ちと結婚したりということになります。
この、カネと生存という話を見ていて分かったことがあります。
それは、スティーブン・キングの「死体(映画化タイトルはスタンド・バイ・ミー)」というのは、若草物語をやりたかったんだな、ということです。
まったく同じ構造なんですよ。
冒頭で、同じ年ごとの死んだ子がいるからと、幼馴染の兄弟分が旅に出る話ですが、あれ、最終的にはその兄弟分たちはみんなバラバラになってしまうんですね。
もともと生活環境の厳しいホワイト・トラッシュの町みたいなところなので、誰もまともな大人になれるなんて思ってない。
その中で、主人公であり作者のキングの投影である少年だけが「生き残る」のですが、どうして自分だけが生き残れたのだろう? と彼は不思議に思っている、というのがあの小説のラストになります。
みんな貧しくて苦しんで、駄目になったり死んだりする。
でも、作家になった主人公だけが社会的に生き残る。
そういう話です。
今回の映画版若草物語「ストーリー・オブ・マイライフ」でも、エイミーが資本家と結婚して財産を獲得し、ジョーは原稿を高値で売りつけるビジネス・ウーマンとなって成功します。
成功の対価として、ジョーは子供たちの教育機関を作ると言う形で生々しさの中和はされるのですが、南北戦争時代から現代に至って、ではこのアメリカ的資本主義価値観が変わったかというと、変わりませんでしたね。
金とステータスというエゴで作られた社会のままでした。
その中で、もう一転してエシカルなニュー・ノーマルに向かおうと言う流れにシフトしかけているのがいま現在です。
果たして我々は、心を取り戻して、搾取で犠牲を出さない世界に、本当に向かうことが出来るのでしょうか?
最近個人的には、それは完全には難しいのかもしれないと思い始めています。
どうしても、どこかの誰かは犠牲になってしまう。
そのことを自覚し、厳粛に生を生きるということがまずは必要なことなのではないかという気になってきています。
良いことなのか悪いことのかは分かりません。
こういったことは、すでに古代インドでお釈迦様によって看破されていたことです。
若草姉妹が渇望したカーストや財産という物を相対化し、精神と身体によって人は自立し、幸せになることが出来るはずだと提唱してくれて、そのための行を残してくれています。
踏みつけにされていた人々のBLM運動が盛んなこんにち、若草物語を知ることが出来たのは大きな財産でした。