私の研究の一つの課題に、フィリピン武術の格技の部の、手法はどこに由来しているのか、という物がありました。
英語圏ではトラッピングともいわれる、手と手を絡めて戦う戦法です。
あれは非常に奇妙です。
なぜなら、元々がエスグリマという西洋剣術であったなら、あんな展開になることは想像しがたい。
確かに片手にナイフを持つエスパダ・イ・ダガがあの形の戦い方をしていて、それがもっとも古い技法であると言われているので、元々あったという見方も可能です。
しかし、だとすると一つ引っかかるのがマレー武術の存在です。
明らかにマレー武術、シラットの中には、あの戦い方をする物が散見されます。
もっとも、マレーシア、インドネシア、フィリピンの区別が付いていない白人種が、どれも同じものだとみなして一つの流儀としてでっちあげたりしているので、その影響が及ぼされている可能性もまた低くはありません。
とはいえ、マレー武術が中国武術の影響であのような戦い方をするようになったという物もまたあるのです。
というのも、マレー武術の祖はインド武術と中国武術であるということになっているのですが、そのインド武術ですら研究してゆくとすでにして中国武術の影響下にあるという可能性がとても高いからです(詳細はインド武術に関する記事に)。
ですので、フィリピン武術におけるエスパダ・イ・ダガのトラッピングについても、元々あった物が中国武術の影響で複雑化した、と考えた方が自然なのではないのかという気がするのです。
フィリピン武術の手業が発展した歴史には、以前に書いたバハドの時代での変遷があるようですが、当時メインでエスクリマに導入された武術は、コンバット・ジュードー、レスリング、ボクシング、合気道などで、実は中国武術の要素はあまり多くありません。
では、どこで入ったのかと言うなら、やはりバハド以外の場で土着的に入って来たのであろうと思われます。
私が教わった、門外不出のフィリピン徒手武術、モンゴシもまた、明らかに中国武術です。
ただ、本格的な中国武術というよりは、表層的な技法の要素に留まっている。
本当に中身まで中国武術を継承している東南アジア武術は例外的な物を除いては見られません。
そうすると、それがどの武術から来たのかを知るのは非常に難しくなってきます。
中核が伝わってなくて表層だけだと、どの流派であるようにも取れてきます。
あの、手と手を絡めて戦う手法が南北問わず中国武術には存在している物ですが、一般的には絡めてもすぐに勝敗をつけることが多いので、あのように長々しつこく手を絡め続けたりはしません。
なぜかと言うと、中国武術としての中身としての部分の威力ですぐに決着がつくからです。
あのような手法を橋法や換手法などと言いますが、門派によっては開門法と言ったりもします。
文字通り、相手の中に入ってゆくための門を開けるための手法であって、そのまま中に入っていくことが目的なのでいつまでも門の辺りでうろうろしてはいないのです。
私の蔡李佛拳にもあるのですが、やはり即座に仕留めに行くのでいつまでもそこにはいません。
あの間合いを維持してジタバタするのはかなり特殊な例であると言えます。
なので、それは東南アジアでのカスタマイズなのだなとも取れるのですが、実は私には一つ心当たりが出てきました。
ウィンチュンだな、と思う人、惜しい。
惜しいけど、同時にやはり表層的です。
というのも、ウィンチュンは威力がない代わりに連打で代用するので、やはり門が開いたら入ってゆくはゆくのです(現代ウィンチュンの話)。
そして何より、手法が意外に似ていない。
細かいことですが、そこまで詳細な手業技術を東南アジアではしません。
では何かというと、おそらくは鶴なのです。
鶴拳類、白鶴拳、あるいは鶴法と呼ばれる海賊武術が福建省、対岸の台湾を中心に広く伝承されています。
ある意味で南派武術のメインストリームと言ってもいいほど、類似の武術が多い門派です。
ですので私は大きく鶴拳類と言ってしまっています。
かつて師父から教わっていた白眉拳もそうだし、南派蟷螂拳もまたこの一派だと言って良いと思われます。
この憶測の理由は、白鶴拳の開祖伝説にありました。
これは、南少林の革命拳士であった方慧石という闘士の娘である、方七娘と呼ばれる人のお話です。
彼女は父親から羅漢拳を学んでいたのですが、ある時に洗濯物を取り込もうとしたらその傍に鶴が居ました。
洗ったものを汚されるのを嫌がって竿で追い払おうとしたのですが、鶴は向かってくる竿を羽で払い、足で避け、くちばしで避けると言った次第で七娘をあしらいました。
これによって七娘は「拳を練っても法を知らなければ鶴にも勝てない」と悟ってこの鳥の象形を学んで編み出したのが白鶴拳だと言われています。
これが「羅漢化鶴」と言われる故事です。
この、七娘の言葉にヒントがありました。
拳を練るとは、練功法を身に付け、悟りに向かう瞑想をたしなむ、正統の少林の武術を学ぶことです。
いつも書いているように、中国武術は行であって、戦いの法のレベルをとっくに越えているところに意義があるのです。
しかし、それは逆に言えば戦法にこだわると言うことではないので、持っている強い力の使いどころに暗いところがありえます。
七娘の言葉はそれに戦法を加える工夫のことを表現しているのでしょう。
そしてその戦法こそが、特徴的な橋法であり、これが南進して東南アジアで広まったのであると思われます。
先ほどウィンチュンと言う答えが惜しいと言ったのは、ウィンチュンもまた、白鶴拳から派生した傍流であると言われているからです。
練功をせず、戦法だけを身に付ける防身術としていわば正統の中国武術とは別の存在になったのです。
羅漢拳のような仏教系の武術、八卦掌のような道教系の武術はそれ自体が行であって解脱を目標としていますが、防身術ではそちらに通じる道はありません。
もちろん、カトリックであるフィリピン人の武術にもそれは必要ない。
もっとも、白鶴拳は本来は一手一手に威力を求める武術でもあります。
橋法は用いるけど、それだけではありません。
これは昔、別の武術をやったときにも言われました。
技も使うがそれだけでやってはいけないと。
かたやで橋法の技を使いながら同時に強力な発勁も合わせて行っていかないといけません。
では、どうしてそれが橋法として発展したのかと言うと、ある先生が言うには、通常なら片手で橋法、片手で攻撃を行って打倒すけど、しかし相手が自分の倍もあれば橋法で逆に返されてしまうかもしれないので、その時に変化するのだ、ということだそうです。
倍もと言うのは大げさなと聴こえるかもしれませんが、例えば90キロくらいの男性はそれほど珍しくありません。
特に、体を鍛えているマッチョな男性なら、ラガーや柔道家には珍しくないでしょう。
一方、小柄な男性も珍しくはありません。
150センチ台の男性なら、体重が50キロ台ということは珍しくない。
となれば、戦う相手が自分の倍ということもおおよそでなら言えなくもない。
ましてや、本当に大きい130キロ台、160キロ台というヒトの存在を考えに入れれば、これはもう。
さらに言うなら、私を育ててくれた明治生まれの祖父は170センチなのですが、祖父を知る親戚のばあ様たちに出会うと必ず言われることが「あぁ、あの大きいノボルさんのお孫さんかい」ということでした。
大きいノボルさんというのが祖父の通称です。
明治時代の平均身長は、140センチ台。
同じく170センチあった福沢諭吉が巨人だと言われていますし、幕末に亡くなった坂本龍馬も172センチでとても大きかったと言われていますので、このような時代の中国でなら、戦闘員同士で体重差が倍近くあることは珍しくなかったのではないでしょうか。
橋法はいわば、相手と組み技に持ち込むようなニュアンスがありますから、小さい方から組んでいったらそれは技巧が無ければやられにゆくような物です。
さらに類推するなら、このような橋法を使う戦い方が追求されたのは、主に南法が多い。
これは、海賊武術的に言うならアフリカから南アメリカを結ぶ公開ルート沿いであるために、多くの人種との海戦が想定されていたからなのではないかと思われます。
西洋から来たポルトガル人やスペイン人、また中東のアラブ系の人々と取引や交戦をしていたこれらの地域の中国人にとっては、大きい相手と戦う工夫が求められていたのではないかと思われます。
そして、同じ環境で西洋人に支配されていたフィリピンにおいて、現在においても極めて小柄なフィリピンの人達がこの技術を模倣したのはうなずける気がします。
ちなみに私のフィリピン武術のグランド・マスターたちも、150センチ台。もう少し若手のマスターたちで大きい方でも160センチ台です。
体格に劣る者が勝る者と戦うための法、鶴法と呼ばれたこの戦い方が広まった背景には、やはり海賊時代の背景が存在したのではと思われます。
ただ、この鶴法は南方中国人社会では大変普及している一方、きわめて秘匿性が高いとも言います。
このスタイルが中国武術ではなく東南アジアスタイルだと認識にされて世に広まったのは、そのためもあるのだと思われます。