少し前に、日本人には民主制はまだ早すぎるのかもしれない、ということを書きました。
というのも、日本人には自主性が無く、政権を「年貢を納めれば責任を肩代わりしてくれる殿様」くらいに思っているように感じているからです。
これまでに書いてきたことを繰り返しますが、これはホッブスが言う選挙制による君主制の政治制度の考え方であって、民主主義の考え方ではない。
では民主主義とは何かというと、国の主体を権力による差配に任せるのではなく、一人一人の国民が相互に自由を保障する「自由の相互承認」が機構の基底となっている社会のことです。
責任を負うのは、権力ではなく個々人です。
だから民主というのです。
各人が自分の責任を負うからこそ自由が保障される。
権力が各個人の自由を裁定するようなことは民主主義では決してないのです。
だからこそ、自殺をしようとしている人を勝手に助けるようなことは自由の侵害であり否民主的である、というようなことが、ハーバードのサンデル教授の「これからの正義の話をしよう」でまな板に載せられている訳です。
非常にニーチェ的です。
この考え方が日本人には少なくとも現状適していないのはなぜかというと、これはそもそも、各人が自分で考えること、少なくとも考えたと自分で思ったことに対して責任を負うということが前提となっているからです。
日本人、物考えないじゃん。
考えないことで有利になり、うまく生きていけるというのが日本社会の在り方ではなかったでしょうか。
これは、アジアにおける民主主義国家のモデルケースとしてGHQが戦後日本の設計図を書いたのに対して、日本政府が教育現場において旧来の全体主義的教育を施してきたというダブル・スタンダードの結果ではないでしょうか。
それによって少なくとも私は、親や学校からは「他人と違うことをするのは駄目なことだ。なぜならつまはじきにされて相手にされなくなるからだ」と教育されてきました。
これ、つまりは物を考えるな、ということですよね。
物を考えず、功利主義で生きることが正しいと教えられて、それはなぜ正しいのかというと、社会が円滑に発展するからだというのが根拠だとされてきました。
つまりは全体主義です。
現行、民主主義の最前線で考えられている「個人の自由が保障されないならそんな社会は民主主義国家ではないので破壊してしまって構わない」という物とは真反対です。
アメリカでは、また八月に入ってシカゴで大略奪が起きましたが、これは政権に対する反抗から起こったものです。
フランスでは去年、イエロー・ジャケットによる大規模なデモとしての破壊行為が行われましたね。
アメリカでのケースは、民衆がフェイク・ニュースに扇動された結果だと報道されていますが、フランスではあらゆる分野の大学で哲学が必須科目となっており、その自由主義はがぜん物を考える力によって支えられていることになっています。
つまり何が言いたいかと言うと、これは単にフラストレーションで人々が暴動を起こしやすい、などという見下した問題ではないということです。
日本式の考え方では、社会のために国民は奉仕することが本分なのであるから、個人が社会を不安定にさせてどうする、という考え方が起きがちなのではないでしょうか。
アメリカやフランスでは、個人を弾圧するような体制は破壊するのが国民の義務であると考えられています。
なぜならそれは、全体主義の悪に加担していることになるからです。
香港民主化運動と、共産党の取り締まりとは、つまりそのような対立の構図で見ることができます。
国の安寧のために、少ない人数の国民を犠牲にするなら、必ずその権力は独立して権力そのものの維持のために果てしなく国民を犠牲にし続けることになる。
そんなSF小説のようなことが、と言う人もいるかもしれませんが、実際に戦前の日本は宮家のために国民総火の玉となって戦死せよと国策を取らなかったでしょうか?
そんな国は現状の世界中にいくらでもあります。
現実を見ないと。
以上のような思考の経緯において、私は日本人には民主主義はまだ早くて、まずはこの全体主義の考えを積極的に破壊してゆくことから始めないといけないと思っています。
少なくとも、民主主義国家として続けてゆくのなら。
このような歴史、文化、風土に関して、ほぼまったく興味がない人は非常に多いと思われます。
えぇ、大変理想的な日本国民なのではないでしょうか。
しかし、それが実は、世の中の生きづらさに繋がっているとしたら興味は湧くのではないでしょうか?
なぜそんなことに? と思ってくれたら幸いです。
世の中の犯罪率の高さ、メンヘラブームの理由、SNSの荒れっぷりなどにこのお話は続いてゆくのです。
平たくいうと、なぜ人はいまのこの国で、悪い心をこんなにも活発に働かせているのか、というお話です。
つづく