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Channel: サウス・マーシャル・アーツ・クラブ(エイシャ身体文化アカデミー)のブログ
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剣への道・3 

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 達磨剣という言葉には、達磨大師という少林武術の最大の巨人の名と、剣という君子の兵器の名が入っています。

 少林武術と言えば元々は棍が有名であり、その守護者は八部衆の緊那羅王だとされています。

 今回のお話では、この剣と棍が海賊武術とどうつながっているかということを扱います。

 先に書いたように、現在アルニスや苗刀として海賊武術に残っている物は、嘉靖の大倭寇と呼ばれる明代の一大武術大合戦をそのルーツとしています。 

 この戦いで、大航海時代にあって中国側の王朝に海上貿易の解禁を求めていた西洋の海賊衆と、アジア各地の海兵たち、日本の倭寇、防衛側の明国官軍がそれぞれの武術を持ち寄ってシャッフルしました。

 少林寺からは程宗猷という武僧が参戦しています。

 この僧侶は、劉雲峰というおそらくは自身倭寇だったのではないかという名人より倭刀術を学んでその術を「単刀法選」という伝書に残しました。

 これが現代の苗刀の原点だと言われています。

 劉家の倭刀術に有名な武術一族の馬氏が手を加えた物が、現在私が教わっている破峰八刀だそうです。

 程宗猷と同じ時代に官軍を率いて軍功を成した名将の一人が兪大猷です。 彼は福建省出身の南派少林武術の使い手でした。

 剣術においては荊楚長剣という物を得ていたそうです。

 この将軍が倭寇対策で南北を行き来しているうちに、少林寺に立ち寄ったことがあるそうです。

 彼は北派の武僧たちの武術を見て「本来の精妙さが失われている。私が教えよう」と聴いているこちらが「おいおいそんな無礼なこと言って大丈夫か?」と思うようなことを言い出して、自らの剣術を伝授したと言います。

 この時に伝えた武術のマニュアルが「剣経」と言う物で、これは現在も内容が伝えられています。

 この剣経、剣と言いながら中身は棍法の伝書です。

 これはやはり、棍は兵器の首であるという考え方からの形式のトレースなのかどうかは分かりませんが、内容は実に信頼のおけるものであったらしく、同じく倭寇対策の名将である戚継光将軍は自らの軍事マニュアルをまとめた時に、この剣経の内容をまるまる内包しているそうです。

 この流れから分かることがいくつかあって、一つにはまず、明代からすでに南北の少林拳があったこと。

 そして南少林がこの時に北上したと言うこと。

 その時に、これが少林の首である棍に取り込まれたということ。

 それから、苗刀が近代では北部の派もあるが、元は南方の将軍によって編み出されたこと。

 これらの流れの上で、もう一度達磨剣という物を見返してみると、それが果たして南北どちらの物かと特定は簡単には出来ないということが思われてきます。

 むしろもはや、総合化されてある種の昇華を見ていると考えた方が良いのかもしれません。

 私がいつ、そこにまで手が届くかはわかりませんが、本当に実に楽しみな次第です。  


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