大衆の正体とは、工業化によって甘やかされた子供のまま大人になった人々だというところまでを前回はお話しました。
相手が子供であるなら、教育が有用であるはずなのですがその教育そのものが精神性を離れ工業化を推進するだけの物になったために大衆の人間性を改善することはなくなりました。
オルテガは、もはや有用性を喪失した同時代の学門ではなく、過去の時代の学門に学べと言います。
はい、ここで私たちの学門に向かいます。
禅やタオの思想そのものにです。
どちらも、自然と自分の間だけに真実を見出すという学問であり、その過程として肉体を通した行をおこないます。
これによって我々現代人は甘やかされた子供から変化することが出来るかもしれないと私は一抹の希望を抱いています。
立脚点が工業化された隣人たちとのバランスの間にだけ存在する仮想の社会ではなく、物質的に普遍的に存在してきている自然界となるからです。
ガンジス文明、黄河文明という初期の人類の文明は、進化にともなうこのような文明病に対策を打っていたのでしょう。
冒頭に書いた阿闍梨からのメールには、ブラジルでは日本ほど反知性主義の傾向が見られず、フェイク・ニュースが蔓延している様子はないと書かれていました。
興味深いと思ったのは、その理由としてつい最近まで軍事政権であったからではないかと書かれていたことです。
これは面白い。
確かに、武力行使が横行している環境においては「おい、ちょっとまて一旦考えよう」と言うスタンスが求められる可能性は高く思われます。
甘やかされた子供のままではいられない。
もちろん私は平和を求めていますし、だから日本も憲法を改正して徴兵制を取り入れろとは言いません。
ただ、現象としてそのようなことは充分ありえると思っているというお話です。
そして、甘やかされた子供たちは反知性主義者の群れとなり、世界的な問題になるレベルにまで至っています。
平和が生み出した物が、平和を脅かすに至りました。
大衆は自分たちと同じ共同幻想を抱かない物に対して排除を行い、圧力を掛けます。
自分たちの幻想が崩れることによって大衆であると言うアイデンティティが崩れるからです。
崩れるとどうなるか、不安になり、不安神経症のパニック発作を起こします。
集団ヒステリーです。
それらは群集心理で野火のごとく広がります。
あのフェイク・ニュースがその証拠です。
ヒステリーを起こして妄念に憑りつかれ、一心に排除と攻撃に駆り立てられます。
これらの先にあるのは分断です。
私個人としては、分断はそれでよい。
どうせ隠棲の身を選んでいるので、世間の大衆がどうなろうと関係が無い。
しかし、大衆同士が派閥に分かれて大好きな派閥闘争にいそしむと……穏健派の大衆にとっては住みにくい世の中になるかもしれません。
つまり、大衆と言うのはその成り立ちの中に自壊の因子をはらんでいるのです。
つづく