すでに夏場に予測されていた通り、日本でも精神疾患の発症者が多発しており、自殺者が沢山出ています。
これ、私の私見から言えばその中には死ななくて良かった人が沢山いるのではないかと思います。
しかし、非情なことですが、大衆が人工的に作り出した社会、もっというなら「世間」の外周には、どうしてもそのように弾き出される人々が出てきます。
これは大衆がより平均値に近い、つまり社会の内側に居られる人が有利であるように自らで選択してそのような仕組みを構築した結果ではないでしょうか。
定期的にみんなでじゃんけんをして、いちばん少ない手を出した人たちが生贄になる、そのような仕組みのように感じます。
そして、彼らは大衆なので、弾き出されると絶望して死んでしまう。
そこで生きることも出来るのに。
しかし、大衆なので多数決で負けたらもう死んでしまう。
そのような環境で教育されているのです。
少数派として生きる教育を受けていない。
つまり、自分一人でも生きられると言う訓練です。
もちろんただ生存するということではありません。
そこで幸せに暮らすと言うことです。
そんなこと出来ない! 大衆はそう思うでしょう。
でも、昔はみんなそう生きていたんです。
一定期間魚が捕れなければ死んでしまう、一定期間不作が続けば生きられない、その中で、自分の食い扶持を世界から自分で調達して暮らすと言うことを。
これは単に自給自足の勧めというような話ではありません。
我々は物理的に社会に生きています。
そこからイン・トゥ・ザ・ワイルドしろということではありません。
社会の中での知恵、ストリート・ワイズを活用して生きる力があれば、この人工的な社会の中で自由に生きられるかもしれない、と思っている訳です。
株でもいいし、ベンチャー・ビジネスでもいい、環境を活用して自分の人生を立ててゆけばいいと思います。
自分の頭で考えて自分の精神を高めてゆき続けられるならば。
そこから足を踏み外した時、人はたやすく大衆になるのかもしれません。
お釈迦様の説いた求道の道、およびタオの無為自然の道というのは大衆にならない生き方を示している物だと思われます。
それは大衆からはじき出される孤独の生に繋がるものかもしれません。
そのため、釈尊も老子も自分を信仰するな、自分で生きろと説いたにも関わらず、後世の人々は教えの哲学を信仰にして宗教にしてしまいました。
大衆化です。
大衆の力は強い。
何せマジョリティです。
その中に居れば何も考えず幸せになれそうです。
大衆になっても幸せになれないときに備えて、自分で生きて幸せになれる道を想定しておくのも良いかもしれません。
つづく