今回の記事は、あるアナリストが言っていた「すごいですね。素人は何でも知っている」という言葉からインスパイアされました。
この言葉が出たのは、ある研究者が自分の専門について語っている時に素人がそこに対して批判をしたりなぜか教えを垂れたりするということがあるという経験を話していた時です。
研究者と言うのは、研究すればするほど、どこまでが分かっていてどこからが不明なのかというラインを明確にする仕事をしている人です。
なので、学べば学ぶほど分からないことが増えて行く。
しかし、素人の中にそれを専門家が言うと「ふ~ん、分からないんだ~」となぜか満足な顔をしたりする人が居ます。
これ、事実では無くて自己愛にしか関心がなくなってしまった自己愛性人格障害の始まりでしょう。
私は昔、自分が専門としている中国武術の範疇で「徹底的に調べた」と言う言葉を使った人を二人だけ知っています。
それぞれ、中国武術について「徹底的に調べた」のだそうです。
一人は世界で最も人口が多い蔡李佛拳さえ知らない素人でした。
もう一人は、ネットで検索しただけの自称先生でした。
私は各門の伝人の老師がたの所に行き、自分の身体で教えを賜って物を学んできましたが、学ぶほどに分からないことや分かると分からないの分水嶺のような物が見えてきます。
「分からない」に突き当たることが「わかった」の到達点だからです。
アジアの国々を旅して先生方に教えを賜って教われば教わるほど「ここまでは分かった」が分かって「だからここが分からないんですよね」と生徒さんに伝えることが増えます。
現地の風習に明るくないと分からないことがあるでしょうし、言語が分からないと分からないこともあるでしょう。
また、それらを俯瞰して世界史的なマクロの視点で始めて見えてくることもあるでしょうし、またその一族の中でしか分からないというドメスティックなこともあるでしょう。
だから、徹底的に調べる、というのは私が思うには、現地に棲んで学び続けて現地人になって時が過ぎて力が尽きるときになって初めて「自分の力の及ぶ範囲では、徹底的に調べたよ」というように使える言葉なのではないかとう気がします。
ネットや雑誌をちょっと当たっただけでは私にはとても使える言葉ではない。
いまでも毎日人生の大部分の力と時間と労力を自分の研究に使って暮らしていますが、まだまだ積みっぱなしの資料や覚えきれていない外国語、行けていない国が沢山あります。
ここで毎日記事が書けるのも、そういう過程の日々の中にいるからです。
そして結論として「ここまでは分かりました」「ここまで到達しました」「こうかもしれません」という結びになり、ときに「ここから先は自分には残された時間が足りないので次に引き継いでくれる人を求めます」と書いて終わりになります。
結局は、生きている世界と器の大きさの反映なのではないでしょうか。
何でも知っている素人の中核にあるのは、やはりナルシシズムなのでしょう。
自己愛のためだけに物を言っていて、現実世界と繋がっていない。
謎の自説を展開していて、他人から真実を告げられた時に「おれ、それは好きじゃない」と言う人が居ます。
好き嫌いこそが重視されているという、自己愛性人格の表明でしょう。
また「俺には(私には)そうなの!」という人も居ます。
それ言ったら終わりだよ。
もう、現実無関係だものそれ。
自己愛性妄想世界の中だけでのお話だから、物理的な現実世界に生きている「他者」にはそれは通じないもの。
えてして人格障害者というのは、自分と他人の区別がつかない物ですが、そこまで妄想に浸って生きているのならもう現実を拒絶することがすべての情熱を注ぎこむ対象となっているのでしょうから、もう手の施しようが見当たりません。
これは私には相手は出来ない。
これが愛国や愛社、愛校などのように集団的に起きることを集団的ナルシシズムと言い、それが行きつく先がポピュリズムです。
だからアメリカ合衆国前大統領の支持者と言うのはあのようなことになってしまった訳です。
私は行の暮らしをする人間だから、あらゆる愛着は必要ないと思って生きています。
みんな、自己愛の投影で妄想に過ぎないのではないかと感じています。
嗜好品として嗜む程度には原罪のような物として受け入れられても、いかなる嗜好品もそうであるように偏愛に至れば中毒を起こします。
簡単で分かりやすい物、魅力的な物は危険です。