昔の武術雑誌を読む機会が増えました。
元々、自分の師父から教わっていること以外には全く興味が無く、他門派はやってることが違うので参考にもならないと感じているのであまりよそ見をしないで来ています。
師父になってからも、自分は蔡李佛は師父だが中国武術全般のことに関しては何も知らない素人であると言ってきました。
しかし、生徒さんたちが良い資料をくれたり、また蔡李佛の周辺のことを学ぶために旅だったりするようになってから、学習の対象も広がりました。
昔出版された雑誌なども、近年になってから目を向けるようになっています。
その手の雑誌は編集者が素人なので視点が特筆すべきところが無いのですが、インタビューなどを受けている老師方の言葉には素晴らしい知恵が詰まっていると感じています。
中には私の師父の先生方が登場していることもあり、自分が教わったことや聞いたエピソードの補完をする機会も多くあります。
先日は「文化的素養の無い物には教えない」と断言されている客家拳法の先生への取材記事に遭遇しました。
この先生は私の師父の門の先人です。
師父自体も、無礼な問い合わせや理解の無い訪問者には、毅然とした態度を持ってお引き取り願っているのですが、そこにはやはりこのような、門派全体の風格と言う物もあるのでしょう。
中国武術と言う物は、中華文化の中でも特に伝統文化であり師弟関係の中の世界という、ある意味で最も厳しい部分にあたる物です。
客家の拳法となれば儒教の礼に加えて少数民族の閉鎖性もあり、格闘技や現代武道の町道場に通うような物とは話が違います。
最近では素人センセイによるサークル活動のような物も盛んなようですが、そのような物とは比べようがない。
その手の物でお客さんと言えば来てくれるほどうれしい物なのでしょうが、こちらの世界では「お客さん」と言えば何も教える気のない門外の人間のことを意味します。
自分で練習会を開いている先生たちに会うと、中には「オタクは何人生徒がいますか?」などと言うことを平気で聞いてくるような人がいます。
大した先生だ。
まるで吉本新喜劇に出てくる関西商人の「儲かりまっか?」のあいさつのようです。
そういう人間がそういう姿勢で売芸をしているのだということがよくわかると言う物です。
私も師父も商売で武術の伝人をしている訳ではありません。
希釈した物を薄い人達に広めようと言う意図は無い。
この人はダメだなと思ったら、儲けになっても帰っていただきます。
いままでもこの姿勢でやってきましたし、これからもそうでしょう。
ただ、最近少し感じたことがあります。
この手の、他人に対する礼や学問に対する敬意と言う物を持っていない人たちは、飛び切り愚かではある物の、決して邪悪と言う訳ではないということです。
単にバカなだけなのです。
人生の経験が足りず、礼の示し方と言う物や誠意の持ち方と言う物をまだ知らないに過ぎないのかもしれない。
人格障害や発達障害で、そういったことを学ぶ能力が高くないことも多々あることでしょう。
人格障害となると邪悪との区別をつけるのが難しくなりますが、発達障害なら悪気はない可能性も高い。
以前に、いまの社会での成人の内、50パーセントは鬱であると言うことを書きました。
そして、それではもはや正気の人間の方が少なかろうということも書きました。
こうなっては生徒さんを取るのは中々難しいことになります。
まぁ私はさほど困りません。
正気であり、心根の正しい人間だけに伝系を伝えればよろしい。
生徒さんを増やしたいと言う野心も虚栄心も無い。
大切なのは一握りの本当に渡すべき人に渡すと言うことです。
その上でなお思うのですが、渡すべきではない人達の中にも、悪くない人も居るんですよね。
愛国主義者や差別主義者などという手段的ナルシシズムに憑かれた人間には、我々の武術は渡すべきではない。
しかし、彼らのことも良く見て見れば実に哀れな人たちが多い。
以前、ブラック・フェイスや人種差別に触れたことがありました。
アメリカでは人種差別を禁止する「ジム・クロウ法」という物があります。
このジム・クロウと言うのは白人が黒人の振りをして道化を演じるミンストレル・ショーと言う芸に出てくる主人公、ピエロのような間抜けなキャラクターの名前です。
「This is America」のPVではチャイルディッシュ・ガンビーノがこのジム・クロウを演じているカットがありました。
差別をするような人間は極めて愚かで品性が乏しいと私は見下し果てますが、最近読んでいる「バブルと狂気」という大衆の愚かさを西洋紙の中から抽出して書き出している本の中に、このジム・クロウに関する記述がありました。
イギリスに、アメリカからもこの出し物が伝わってきたのだそうなのですね。
演じていたのは白人種のホームレスやストリート・チルドレンで、通りに立ってこの芸をしては小銭を稼いで暮らしていたのだそうです。
このような差別的な演目に当時の上流階級の人達は顔をしかめたそうですが、同時にこのようにも書いています。
「どうせ幸せになることは出来ない連中なのだから、せめて楽しませておいてやろうではないか」
この視点には、大衆は豚だ式の突き放した階級意識がうかがえるように思います。
差別などして喜んでいる連中は、しょせんは無明の哀れな人々です。
同じ意味で、礼を知らず、知能の足りない入門希望者達も可哀そうな人たちです。
もっと言うなら、もったいない。
心根が良い人が居ても、物を知らないがために叩いた門が開かれることがない。
私自身も、若い頃にさぞ同じことを沢山してきたのだと思われます。
彼らはまだ、物を学ぶ準備が出来ていないだけなのだと最近思うようになりました。
五年かかるか十年かかるかはわかりませんが、いつか礼や生き方を学ぶことが叶ったときには、どこかの門をくぐるときがあるかもしれませんね。