さて、前回に例によって原典に書かれている部分と訳者の私見を切り分けることを前提におススメしますと書いたのですが、これがですね、特に頼りないのが今回思想面に関してです。
やはりここは、やっている人間とやってない人間の差がでます。
私は実際に南派少林の伝人として修行をしてきて、ずっとこれは仏教の行であるということを教わってきたんですね。
それが驚きだったし、新鮮でした。
そして、そういう思想的なコンセプトがあっての具体としての行だからここまで続けてきた訳です。
これは私もそうだったし、私の師父も中国で修行をしていたときに逐一法話のようなお話を聴きながら稽古をしてきたと言っておられました。
師父は鴻勝館の伝統だと言っていましたけど、恐らくは南少林拳全般に珍しくない傾向だと思うのですね。
それは、これが仏門の行であるからです。
尊我斎先生はこれを「宗門の行」だと書いています。
その前提で少林寺から南少林時に至り、覚遠上人と言う法師によってこの南派拳法がアップデートされた経緯というのがこの書には書かれています。
しかしこれがK先生の解釈だと捻じれて、禅の要素があるのは日本武道からの逆輸入であろう、ということになってしまう。
いや、そうではないでしょう。
確かに、この書があるから以後の世代である私や師父の世代が仏教的な修行を受けたのだ、という可能性もありますが、少林寺の歴史を見ても少林に近代以前から武術が伝わっていたことは明確であり、別に日本武道が禅の思想を取り入れてその影響で中国武術が禅と近しくなったと言うことはない。
この辺りがね、もし実際にK先生が当時しっかりと南派少林武術を修行していればその時代の南派武術と宗門の空気の関係が体感できていたであろうと思うのですが、いまとなってはどうしようもないところです。
ただ、私の老師はK先生と世代的に同じくらいだと思うのですが、やはり南派武術を教えてくれながら、同時に専門家として黄檗宗についての講演などもされており、我々にも禅を指導してくれていますので、少なくともK先生の修行していた時代にきちんと南少林武術を学んでいれば、当時もそれが宗門の行として行われていたことは体験されていたのではないかと思います。
その上で、唐、宋の時代から尊我斎先生以前の時代、K先生の修行時代である20世紀後半、および我々の21世紀に至るまで、正統の南派武術が日本武道の影響など関係なく、常に禅の行として共にあったことが研究されていたらと惜しむ次第です。
尊我斎先生記すに、この拳は元々の物とはだいぶ変わっているということです。
曰く、我々もそう教わった達磨元祖説では達磨大師より伝わったと仮託されている少林拳ですが、これは現在見るような物よりもより自強に重きを置いた、戦闘性の低い物だったと書かれています。
それが後に害獣や盗賊からの自衛のために戦闘性の高い方向に進化したと言います。
となるとこれは、初期の物は気功や練功の色が強く、のちに棍で世に知られるようになったものと言うのは後発の発展の結果だと言うことなのかもしれません。
これは非常に面白いことです。
私は師父から学んだ通り、常々表層の技法や勝敗の要素ではなく気功や自強、養生や瞑想こそが中国武術においては大切なのだと書いていますが、原点はやはりそこにあったということが想定可能となります。
この原点の部分の差異が、他の実戦的な世界各地の武術や格技と中国武術の根本的な違いです。
その少林武術を、近代の覚遠上人という方が再アップデートしたものが南派武術だと言うのですが、これは中国の内陸部の南派武術だと言います。
尊我斎先生の書くところには各地の名人の武功が列挙されているのですが、それらの集大成がおそらくはこの内陸部の南派武術なのでしょう。
K先生と同時代の日本の中国武術の大パイオニア、M先生はこの書の内容に関して「洪拳からの流用である」と書いていましたが、K先生の見解では逆です。
「少林拳術秘訣」から洪拳に流出したと言うのがK先生の説です。
正直、どちらもありそうなことです。
実際、昨今の洪拳や我らが蔡李佛でも、ミット・トレーニングを取り入れてキックボクシングの要素が入ったりすることが多々見られます。
革命結社の間で流布した拳譜の内容と言えば各派が取り入れても不思議はありません。
兵器や練功法に関しても、他派の物を取り入れるのは決して珍しいことではない。
洪拳と言えば洪門の革命結社の武術、蔡李佛は太平天国革命の武術、客家拳法と言えばしょっちゅう革命ばっか企てている客家の人達の武術。
こういった革命結社向けの武術本がそれらの武術に与えた影響が大きいと言うことは充分あると思うのですね。
このように、思想面や歴史においてはまさに私が現在継承している物に直結していることが逐一感じられる内容のこの本なのですが、一方で技術書としてはどうなのか、というところがあります。
この内容に関しては正直現存している何拳の物だとも言いがたいところはあるのですが、その上で、何気ない一文に〇力として表現されているような物が、私たちが非常に重視している勁道の要点だったりするというような部分もあるので、やはり大変にツボを押さえた真実を書いた書だと高く評価することが出来ます。
しかし、これらの実技に関する部分に関してはK先生によるツボを押さえていない誤解による訳注が入っているので、そこに注意して読まねばならないというところがあります。
これらのところは師父より直接指導を得た人間にしか理解が出来ないところですので、読んだところで理解が出来ると言う物ではありません。
つづく