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岳飛武術 2

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 改めまして書きますが、私の研究はおおむね二つに分かれています。

 共通するコンセプトは仏教の身体操法の伝播ルートの研究であり、そこからの二つのルートを研究しています。

 一・心意把としての伝播。

 二・海賊武術としての伝播。

 面白いのは、この二つ目のルート、海賊武術とはフィリピン武術を最下流とし、南派中国武術を主流とする流れです。

 対して、心意把は回族という小アジアの民族からの嵩山少林寺に伝わった、と言われています。

 この両者に分かれるところに居るのが、英雄岳武王こと岳飛の存在です。

 先日から書いている尊我斎先生の本では、南派武術の看板技である両手同時攻撃は、岳飛公による発明だとされています。

 なので、これが表看板となっており、中核技法だとなっている門派は南派の王道である、ということに解釈できます。

 北派の武術でもそのような双把や双撑掌はよくあるではないか、という声が出そうですが、あるだけで決して看板技でも中核でもない。

 通臂拳や翻子拳のような典型的北は武術では、主要な技とは決して言えません。

 形意拳、太極拳などではこれが重要となるようですが、それこそ形意拳こそ心意拳の漢化した物であり、太極拳にはそれが伝わった物だと見なすことが出来ます。

 明らかに少林拳である形意拳が太極拳の類の内家三拳に数えられているのはこのためでしょう。

 太極拳のように、北派拳法に双把が流入した時には、馬形が平馬(馬歩)であると解釈すれば良いと私見します。

 それが流入、後付けの場合の典型です。

 嵩山少林拳でもそのようになる。

 しかし、元々これが中核である場合は平馬ではなくなります。

 心意拳では鶏歩と呼ばれる独特の馬形であり、形意拳でも三体式、ないし六合式と呼ばれる同様の馬形となります。

 平馬でも出来ますが、これを中核とするなら平馬にする必要がないのです。

 面白いのは、小架式の通背拳では、やはりいわゆる馬歩がメインでは無くて、鶏歩や三体式に近い歩形が用いられるところです。

 これは同じ回族武術としての整合性があるためかもしれません。

 諸説見解はありましょうが、私はこの、中国の武術研究家が提唱した、長拳類→通背拳類→八極拳→心意拳という回族武術の構造の段階の進展という説には非常に説得力を感じています。

 おそらくは双把と言うのはこの用勁の進化の上位部に至ったときに用いられる具体なのでしょう。

 この用勁、招式を岳飛が編み出した、というのは明らかに仮託、伝説です。

 しかしこの伝説は非常に面白い。

 曰く、これは抗金の戦いに奔走していた岳飛に政府の融和政策派が手を焼いたときに、岳家軍の兵器使用を禁止して、兵器蔵に鍵をしてしまったのがきっかけだと言うのです。

 こういうことをするのはおそらく秦檜だ、という民間伝承の意識が織り込まれていることでしょう。

 こうして武器を奪われてしまった岳飛はどうしたかというと、素手で戦う双把の拳術を編み出して兵たちを調練し、金軍を打ち破った、というのがこの伝説の結末です。

 これが心意拳の岳飛開祖説であり、漢民族の心意拳ではこの時の岳飛拳譜が門派の原点である、とされているようです。

 回族の心意拳ではこの話はあまり聞いたことがありませんが、看板技である双把、単把、その他の多くの技が同じ用勁によってなりたっています。

 南派中国武術と言うのは、宋代後期に金軍が攻めてきた時に、抵抗勢力として発生しており、その中にこの岳飛武術が取り込まれた のだ、というのが南派武術岳飛影響説です。

 確かに、岳飛の抵抗は南宋の時代にまで尾を引き、長きにわたる金との抵抗戦の大きな存在となりました。

 そのため、抗金のために広まったと言う南派武術で岳飛創始説が広まったということは頷けることです。 

 そんな訳で、この南北両者のお話を統合すると、心意把の南派武術直系説が出来上がります。

 この後、南派武術は明の時代になって海賊武術としてさらに発展、南進してゆくことになります。

 南宋は金との戦いの中でどんどん南に追われてゆき、南方各地の地方勢力がこの戦いに参戦したと言うから、南方の武術がこの流れに連なっているというのは納得のいくことです。

 そのようにして地方勢力と合流しながら、南宋朝廷はとうとう海にまで追われて海上朝廷を開き、最後にはルソン島にまで追われてそこに最後の首都である東都王朝を開いたと言います。

 これは現在のフィリピン、マニラのトンドです。

 この地は中国人が昔拓いた場所だ、と言われており、現在でも現地の人々は内なる異国としてあまり近づきたがらない場所です。

 そこに海賊武術の中心とも言える五祖拳が伝わっていると言うので、私が何度も尋ねようとしたのですが、怖がって誰も案内をしてくれないのでとうとう調査が叶っていない土地です。

 この五祖拳は現地のフィリピン人の間にも断片的に流布した物が、クンタオと呼ばれて広まっています。

 南宋の抗金闘争の後、南派武術は明の時代になって嘉靖の大倭寇をピークとして南洋に広まりました。

 これは、各地の手練れの武術者がこの戦いに次々参戦しては現地で広めたり、または下って倭寇に参加したしているためです。

 私が南派武術の再下流はフィリピンだと言うのはこの海賊武術の存在があるからです。

 清末に至って、南派武術が反清の革命結社の武術となったときに、これらの流儀は最盛期を迎えたと言います。

 これが現在に知られている南派武術なのですが、福建武術と広東武術の二派を主流とするという分類はよく知られているかと思われます。

 福建南拳の特徴は、いわゆる馬歩ではない達姿勢からの両手同時攻撃です。

 つまり、いままで書いてきた岳公直系の双把です。

 広東系では平馬、馬歩を多用します。

 私が伝えている蔡李佛は代表的なこちらとなります。

 しかし蔡李佛がこの流れの例として微妙なのは、南北合一蔡李佛と言って、これは嵩山少林拳を統合して南に広めたことがルーツだとされているからです。

 ですので、南派武術の中では「北っぽい拳術」とみなされています。 

 となれば、平馬が基本スタンスなのも当然のこと。

 しかし、ここからがただ情報を集めるだけのオタクでは無くて内側の人である、継承者であることの意義が現れるお話となります。

 この蔡李佛、高級段階に至ると平馬ではなくなるのです。

 高く構えた吊馬、すなわち、形意拳の三体式になります。

 つまり、漢化した心意拳の流れが現れるのです。

 これだけなら、嵩山少林拳から来ているのでさほどに驚くことはないかもしれません。

 しかし、それよりだいぶ前の段階、中級に入るくらいの段階である重要な套路を学ぶのですが、これが四方に向かって都度都度双把を出すと言う符丁の套路となっています。

 つまり、革命運動の仲間への身分証明となっているのです。

 この、双把を四方に示すというのは、自分たちが岳公の思想の末裔、北方騎馬異民族に対して抵抗する革命兵士だと言う表明でしょう。

 件の岳飛心意拳開祖説を基とした符丁だと想定が出来るのです。

 この双把の符丁は蔡李佛の物だけではありません。

 当時の南派革命武術組織における符丁として、両掌を前に出すジェスチャーは「戦え!」と意味しているというのです。

 普通は両手を前に突き出したら「STOP!」なのですが、南派革命結社では「FIGHIT!」の意味です。

 逆に「STOP!」の意思表明の時には掌を返して手の甲側を出します。

 ながらくその意味は分からなかったのですが、尊我斎先生の本に答えが書いてありました。

 手の甲を見せるのは手の背、すなわち背反を表しているというのです。

 闘争沙汰になったときに、双方が手の甲を出し合えば、手の背が向かい合います。すなわち、ともに体制に背反する革命の同志だということが分かるので戦わない、という意味だそうです。 

 こういう歴史的な経緯や伝承があって、真正な武術と言うのは成り立っています。

 決して単なる格技や体操競技と同じではないと言うのはこういうことです。

 本物を学ぶと言うのは、このような人類の歴史と文化を自分の存在に受け継いでゆく、ということです。

 面白いでしょう?


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