五祖拳を学んだことで、双重の発勁と言う物が見えてき始めています。
心意拳を学んで以来、私の中にあった単重の発勁とはだいぶ違う物ですけれども、恐らくは双重でも威力は出るであろうと思い始めています。
どちらも岳飛由来という伝説がありますが、これらが一つの物から派生したのか、あるいは違うのかはわかりません。
元々、一つの物として伝わっていて、段階ごとに変化があった、という考え方もありえます。
だとしたらおそらくまず双重で基礎を作って、のちに単重に至り、そこから抖勁になる、ということではないかと思われます。
これ、イコールで明勁、暗勁、化勁と言葉を置き換えられるかもしれないと思っていたのですが、違いました。おそらく。
双重でも、暗です。見えない勁が発されます。
老師曰く、陽でも出来るということだそうですので、重心と明暗の別はまた別のカテゴライズなのだということが分かりました。
これとは別に、あるいは重なった状態で、地域的な要因ということも考えられます。
岳飛伝説が本当であるかはともかく、歴史的にはこの勁は回族心意拳の物だということはまず間違いがなさそうです。
内陸部に多く居住し、馬に乗ることを禁じられ、居住区から移動することも許されないこともあった回族の心意拳が、足場の良さから単重に発展したことは充分あり得ると思われます。
しかし、南船北馬の言葉通り、南方では船上での生活、および戦いが想定されます。
この南派武術の発展が騎馬民族の金が南侵してきた南宋の時代にあったとするなら、南派革命拳士たちに船上生活者が多かったのは必然です。
実際、南宋朝廷そのものが海上に船を繋いだ海上朝廷となったと言う話もあります。
そこにある兵営では当然、足場の揺らぐ船上での武術の体得が必須となります。
騎馬民族である金は海戦が苦手であったということからも、この双重の海上武術は優位を持つことがあったであろうと思われます。
海上朝廷はその後、離散して逃散者は台湾など南海に落ち延び、またフィリピンに逃れてその地を宋朝最後の島、呂宋(ルソン)と名付けて東都(トンド)と言う小国を立てたとも言います。
これが現在のフィリピンにまでつながる、海賊武術の初期の種の一つとなったことはありえるのではないかと想定しています。