最近少し時間が取れることが増えて来ました。
この半年ほど、あまりそういう隙間時間が見つけられなかった。
今回そういうちょこちょこ時間があったので、蔡李佛の基本套路にまた取り組むことが出来ました。
これは私が一番やりこんで得意だった套路だったのですが、なんと、上手く出来ませんでした。
この数年、最後の套路である天拳を体に毎日やっていたので、そちらが身体に入っていて、無意識に途中からそちらに繋がってしまいます。
このように、無意識に身体が行うというのを「手続き記憶」と言うそうです。
それを得るのが目的で毎日天拳をやっていたのでそれでいいのですが、基本が抜けてしまってはちょっと困ります。
いや、本来、一行者として考えれば、自然に初めの物が抜けて行っていまやっている最後の一つしか出来ないというのは正しいのかもしれません。
というか、そんな気がします。
しかし、私は同時に師父であり、文化継承者であるので、伝えるために基礎の内容や全体の体系を記憶していないとなりません。
これは悩ましいところです。
一武芸者のような先生が、生徒に教えないのはこの、自身の武術家としてのルートに忠実だからでしょう。
武功を高め、気功を練り、識を上げて自己を確立させ、要らない物を捨て去って、最後には羽化登仙する、というのが中国武術の本道のルートです。
生徒を取るなどと言うのは生活のためのことであって、本来は仏家や道家の行としては無くて良い物だと私見しています。
そういう余計な世間の余禄に気を取られると俗流に堕ちる。
私も本来はそういう、隠棲して世の中と離れて独りで自分の功を練って死ぬまで過ごす予定でした。
そのつもりで師父に天拳を教えて欲しいとお願いしたのはもう十年くらい前でしたか。
そうすると師父が、当時まだ掌門もご存命だった香港に連絡をとってくださって「教えてもいいけどあれは最後の套路だから一通り他のが全部出来るようになってからな」という答えがあったので、私は普通はかなわない全部の套路を与えてもらえるという幸運に恵まれました。
そうなると、もらったけどもう終わったから捨てる、ということも出来ず、師父になって伝系を継ぐということになりました。
いま思うと、ここが私のしゃばっ気ですね。
万感の感謝を込めて、いただいた物を吸収し、そして忘れていれば一行者としてあるいは大成したかもしれません。
誰も知らないところで。
そうやって生きて、どこかの森の中のバラックのようなところで孤独死しているところが発見される、というのが正統派の武林隠者の在り方でしょう。
しかし私はタオに則って21世紀人の生き方をしてしまったために、ほとんど他人と会わない生活が都市部で送れながら隠棲生活が出来てしまっています。
その代わりに、いただいた物を記憶し、分析し、後継に受け渡すという仕事を続けています。
そう言った必要のために、天拳の識を持って基本套路を一つ一つ検討し、やりなおして言ったのですが、そうすると当たり前ですがこれが非常にその素晴らしさが味わえます。
初めの套路と言うのは、本当にすべての内容を含んだ物になっています。
最後の套路も実はしかり。
初めと最後をすり合わせたことで、二つが繋がり、輪が閉じて一つになりました。
これならもう、天拳だけやっても基本套路だけやっても同じことです。
良い套路を打つと、美味しい物を味わっているような感覚があります。
非常に美味しい物でした。