前回の記事で、この国の集団的ナルシシズムである保守思想がもはや世界情勢ではまったく通用しないと言うことを書きました。
少子化もオフショア化も失われた20年も、すべてこの保守ナルシシズムと言う信仰が原因です。
にもかかわらず、その被害者であるいわゆる底辺層(私もそうだ)こそ、保守に傾倒してポピュリズムを強めて行ってしまう。
貧困な心理をうまく操作する愚民化教育の賜物なのでしょう。
日本社会と言うムラ社会を他国と共有できない独自の価値観(ナルシシズム)で囲い込むことで内圧を高めて行くという洗脳手法によって、閉塞と自己愛性は高まり、かつ現実的な対処が不可能なほどの危機に至っています。
どうあっても、外部の他者を認めることが出来ず、国風の国際化や外国からの移民の受け入れに踏み切ることが出来ない。
明らかにこのままでは先細りしかないにも関わらず、なんら有効な手を打つことが出来ない。
私が日本人なのに中国武術を専門とし、アジア文化というさらに大きな枠に文脈を広げて中国武術よりもインド武術が上流であると見なし、仏教武術のアジアへの伝播という仏教的身体文化の視点に立脚しているのは、日本という小さな国そのものを特別視することに意味を見出していないからです。
アジアの島国の一つとして、文化圏単位でまず見直して、アジア人の一人として各人がアイデンティティを自覚しなおし、その上でコスモポリタンとして世界に出てゆくことに日本人の国際社会での未来を見出しているからこそ、鎖国前の国際拠点として日本文化が重要な位置をしめていた倭寇の時代の身体文化に視点を向けています。
歴史資料を見るに、あの時代まさしく日本人は最先端の国際人としての位置に立てていました。
その後、日本人の中だけで自分を日本人らしく見せるための日本人内日本人的価値観が始まり、それが現在のビジネスマン・エチケット、マナー講師的マナーに至っているのではないでしょうか。
近年創作された江戸しぐさ問題などは、すべての日本人が己が本当は何者であるかという立ち位置を見直すための事案だったのでは?
他人が偽物だと責めてばかりいても仕方がない。自分の偽物性の見直すための物差しとしなければ。
もうずっとこのような立ち位置で文章を書き続けているので、読んでいてくれている皆さんの中にはもしかして、私がウィシュマ・サンダマリさんの事件をここで取り上げていないことをいぶかしんでいた方もいらっしゃるかもしれません。
もちろん、無関心であったわけではありません。
ずっと動向をうかがっていました。
この記事に着手した当日、入管での拷問死の責任者として、入管施設の責任者と副責任者が殺人容疑で起訴されました。
天皇制信仰による保守政治姿勢においては、外国人は国民として受け入れません。
イエ単位による細胞組織を国体とし、その頂点に天皇家をいただくのが保守思想の中核にある信仰だからです。
昨今かまびすしい皇室から外に出られる若い女性に関するパパラッチ問題も、この保守信仰思想を土台に成り立っている物でしょう。
日本国憲法には「結婚は両性の合意のみに基づいて行われる」と憲法に明記されているにも関わらず、大衆の民意の方がそれに納得できずに嫌がらせを繰り返しているように見える。
みな、憲法よりも未来の国際化よりも、いまの自分の感情ばかりを重視している。
恐ろしいナルシシズムです。
この、ナルシシズムによって成り立っている国体においては、外国人をそのイエに向かえることは否定されます。
なので実習生と言う名の下層民を労働力として活用することはしても、移民として日本人にすることは認めません。
外国の遺伝子を持つ外国人は家族では無いのでイエには入れない。
戦後、GHQによって日本の民族帝国主義を解体され(あれ? この時に解体されてるはずだぞ?)、民主主義国家としての再構築を迎えた時に、入管という組織が作られました。
これはまだまことしやかに流れている噂としてしか確認できていないお話なのですが、この時に入管職員として認定されたのは、元特高警察の職員が中心だったと言います。
つまり、GHQは大日本帝国を解体して民族主義から民主主義に改めようとしたのですが、保守派の対外主義者は水際対策として入管に潜り込み、ここで水際対策を展開しはじめた、というのです。
彼らが作った排外主義のマニュアルがいまも引き続き入管と言う組織では実践され続けているのだ、ということです。
確かに、外国人を排斥し、監禁して拷問し、たびたび死に至らしめるという組織は戦中の特高そのものであるように感じられます。
一方で、アメリカはこの国をポピュリズムの国としてデザインしました。
1940年代のアメリカなんていうのは、黒人種や黄色人種なんてのは生産力として活用はされても市民としての地位なんてものは与えられない人種だと見なしている状況です。
なので、そのままアメリカ市民の下位生産力となる下層市民を拡充する計算が合ったことは明確です。植民地拡大ってのはそういうことですからね。
ですので、知能程度を上げさせず、間違っても市民階級に入り込んでくるような人々を作りすぎないように愚民化教育への助力をしました。
インドネシアでは大学に進学した学生の内、エリートはアメリカの大学に招いてすっかりアメリカ人に洗脳してから返すのだ、ということを以前に書きました。
そうしてアメリカナイズされた選良たちが後に国政に携わるのです。
同じですよ。
フィリピンでもまったく同じことが行われています。
だからフィリピンはいつまで経ってもパッとしないんだ、ということでドゥテルテ大統領がブチ切れてアメリカの影響を振り払いました。
なまじ既得権益を得てきた日本より、フィリピンの方が先に目を覚ましたのですよ。
このまま、歴史的圧力に自覚のない状態で生きて行けば、すべての日本人は一体この国の歴史で何が行われてきたのか、そのままだとどうなるのか、ということを理解できないままでしょう。
入管で閉じ込められて死ぬまで自由を奪われた外国人に対するのとまったく同じ構造のことが、我々にも行われているんですよ。
この国に閉じ込められて、死ぬまで踏みつけられ続けてゆくという生き方ですよ。
だから私はずっと、そこから抜け出して生きて行くための一つのケースをオンタイムで発信してきましたし、そのためのメソッドとしての身体哲学を教伝し続けているのです。
日本武術を捨てたのもそれが原因です。
よく言われることですが、正座文化やそれに立脚した日本武術なんてのは、徳川家による日本人をあえて不自由にして管理するための物ですよ。
刀の定寸もそう、相手を殺してはいけないという柔の捕手も同じく。
みな、封建社会の中での階級上の事情によって設定された物です。
つまり初めから、人間を不自由に拘束するための物です。
なので、アジア人の文化の原点である、裸の状態からの身体操法、身体哲学にさかのぼってここに至っている訳です。
上から押し付けられた身分制度やそれに基づいた教育が愚民化政策による物であった場合、人間は一生その束縛から逃れることができないでしょうか?
いや、そんなことはありません。
人は自ら目を覚まし、自分で自分を教育することが可能です。
すなわち、学びです。
物を学ぶと言うことこそが、人を本当に自由にする。