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Channel: サウス・マーシャル・アーツ・クラブ(エイシャ身体文化アカデミー)のブログ
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説拳篇 二

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 前回は孟子を引き合いに、本来は人が善性を備えているにしても、保健体育的な意味で物理的に障害を抱えていればその限りではないのではなかろうか、ということを書きました。

 そして、現在は精神の障害が極めて多い時代であることは医学的に証明されています。

 このアプローチから見れば、現代は明らかに人心において世が悪い。

 老荘、孔孟に書かれているような乱世の時代と変わらないように思えます。

 なので、悪しき世に適応して人間の質が悪くなるということは必然の流れであるように思われます。

 悪の世では悪に順応する方が生命は維持がしやすい。

 これは荘子においても巨悪に逆らうなどは蟷螂の斧(匹夫の勇)だ、と揶揄されていることからも分かります。

 だからこそ、タオにおいては悪しき現世から隠棲をするという解脱思想が語られます。

 悪への順応を否定し、個々人にて己を高め、自浄作用を得ることで精神労働の段階に至れる。

 仏教でもタオと同じく解脱こそが目的であるとして語られています。

 しかし儒教においては着地点は共通しながらも、隠棲を否定してあくまで悪しき現世と戦うことが説かれます。

 とはいえ、実際には孔子様も孟子もその闘争が物理的な実を結ぶことはなく、逼塞して生を終えました。すなわち隠棲と同じです。

 ただ、あくまで道徳主義者である儒教の考えにおいては、能動的な隠棲と結果としての隠棲はまったく意味が違うということなのでしょう。

 現代的なスピリチュアルが迷妄だと言うのは、一つには上の三教にある行の部分と正統な教えをすっ飛ばして簡略化し、うわべだけをなまかじりにした結果、金銭や名声、虚栄などの生産性に着地するからです。

 それって単に悪しき世界に無批判に順応しているだけで、何一つ人格を向上をさせない。

 単なる逃避、敗北者の思想でしかありえない。

 伝統的な三教の教えに共通するのは、常々自己を省みて批判をするというところです。

 それなくして行も向上もありえはしないでしょう。

 近年、長きにわたる社会の悪化の原因は、無批判性であるということを聞きます。

 逆に保守派の人々、もしくはポピュリズム勢の人々からは、批判ばかりしているのは良くない、ポジティブ・マスコミュニケーションも良い物だ、というような意見が出ています。

 これこそがパラダイム・シフト下での分断でしょう。

 精神労働の不可能な人たちが、無非難、ポジティブ、スピリチュアルに溜まっている。

 自浄作用そのものの否定と、彼等ポピュリズムの人達の反知性主義は、ほとんど同一であると感じさえします。

 私の伝統武術継承者としての役割は、自ら望んで自己批判をし、自浄作用を持って向上を望む人たちに、そのための手段を手渡すと言うことです。

 嘆かわしいことに、世の武術愛好家の中にはこれとまったく逆の人達が多い。

 コスプレごっこのような感じで練習に参加したがる者、風俗のように無批判に肯定されて気持ちよがりたくて参加する者、出会い系のように友達作りをしにくる者などの志を持ち合わせない人たちが沢山います。

 これらはみな、伝統思想の観点から見れば病者に等しい。

 少なくとも私はそう感じています。

 そのような衆人の病が集まって世の病を作っている。

 私にできるのは、先人が伝えて来た、人の生を良くし、世の中を良くするための芸術を継承し、伝えることです。

 釈尊は自身のことを世を治すための医者だと言われていたそうですが、私たちが受け継いでいるのはそのための具体なのです。

 ぜひに心ある人にこのことが伝わって欲しいと思っています。


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