中国の歴史は械闘の歴史だと言っても良いと言うことを前回書きました。
おそらくは、そういった械闘組織の中で現在最も知られている最大勢力は、中国共産党でしょう。
彼らは当時、ソビエトからマルクス思想を布教された思想結社でした。
運営資金はソビエトから受けていると言う、国家転覆の革命結社です。
初期の頃は北方の馬賊や軍閥の一つという見方をされて居ましたが、それが各地での布教活動で勢力を広げて行きました。
先行してイニシアチブを握っていた国民党は、当時各地に国術館を建設し、若い武術講師の育成に力を入れていました。
それらの卒業生が地元に帰るなり都会に居を構えるなりすれば、その地域の械闘組織が強化されます。
すなわち、日本をはじめとした諸外国勢力への抵抗力の強化であり、馬賊や流民などによる治安の乱れを防ぐ自治力の強化でもありました。
のみならず、それら械闘組織の師父の位置に国民党の創設した国術館の卒業生が居ると言うことは、国術館の指導者である師父からすれば弟子が各地域で力を持っているということになります。
これは国術館、およびそれを運営している国民党そのものの権力母体足りえます。
この、械闘からの中国史という視点を持てば民国時代の歴史にはこういった視点からの構造が見えてくるわけです。
一方の共産党は、馬賊や活動家、チワン族などに勢力を拡げることで抵抗勢力として成長してゆきました。
共産党が、紅衣兵や強烈な洗脳行為などを打ち出すに至ったのは、前時代的な械闘組織単位による中国社会そのものとの抗争が前提としていたからでしょう。
彼らは文化大革命を起こした時に、唯物主義の名のもとに伝統思想を否定して破壊しました。
多くの武術家がこの時に弾圧され、ある人は亡命し、ある人は流儀を秘してそのまま封じたと言います。
これはもちろん、械闘勢力の分解です。
儒教や道教などの思想団体の解体も同様です。
思想そのものもさることながら、中国において集団と言う物が形成された時に必然的に伴う械闘力そのものの解体が必要だったという訳でしょう。
また、家族を引き離して若者たちを下放青年と称して集団農場に送って労働をさせましたが、これはもちろん、宗族制の解体を意図していたことでしょう。
中国において一族が存在している限り、そこには械闘組織という武装勢力の存在を許容することにならざるを得ないからです。
現に、現代でも中国では械闘が行われている訳です。
現代の械闘においては、警察官はみないふりをすると言います。
ことが公になり、やむなく官憲の手が入る折には、械闘の当事者である両方の村が、口裏を合わせて「そんなことはない。何も起きていない」と隠蔽するのだそうです。
そして、司直の側も「調査の結果、ただの酔っぱらいの喧嘩だった」的に無かったことにして処理するそうです。
もし毛沢東がこれを知ったなら「それみたことか。だから言ったではないか」と思うことでしょう。
回族は三人以上で歩いてはいけない、というような少数民族弾圧にもこの視点が透けて見えます。
少数民族などが複数になれば、即械闘勢力となる。事実、回族武術などは中国武術のメインストリームではないか。ということでしょう。
ウイグルなどの少数民族弾圧もまた、この観点からは理由が分かることになります。
先日、老師からどうして福建にお生まれになったのに北方は滄州の通臂拳を学ばれることになったのかという経緯を伺いました。
老師の通臂拳は、大師が習得されたものです。
その大師は、厦門の団体で五祖拳の最上位にいらっしゃった方で、他にも南派の武術を体得されていらっしゃいます。
通臂拳だけ北方の色合いがあるのが不思議だったのです。
老師がおっしゃるには、大師の師父が、南方に通臂を持ってきたのだとのことです。
きっかけはやはり、文革でした。
弾圧下の北方から南に来られていたようです。
しかし、武術が禁止されていた時代に継承は難しかったことでしょうと思ったのですが、実は文革時代の南方では若者はみんな武術をやっていた、というお話を聴きました。
これは実は、他の先生からも聞いたことがあります。
広東南派の先生が、やはり文革時代、農村に送られていた少年だった時に覚えて武術家になったのだと。
械闘が当たり前の風俗の中で育った少年たちが地元や宗族から引き離されてバラバラに各地に送られると、送られた先で戦国時代状態の勢力闘争が始まるようなのですね。
各自コネクションもない少年たちが、武力闘争をしてそこで武力組織を形成してゆく。
そのために、地方に居る武術の先生を見つけ出して教えを受けていたのだと言います。
南方における通臂拳もそう言った形で少年ギャングたちに非常に人気があったらしい。
そりゃあそうでしょう。通臂、通背と言えばとにかくそういった戦闘での評価が高い。
「実戦と言えば通背」という言葉は恐らく、この時代に少年たちの間で広まったのではないでしょうか。
この時にこうして武術を学び、通臂拳を得た少年たちが後に、警察官僚などの地方自治官になりました。
そのため、通臂拳は滄州を遠く離れた南方でも広まったとのことです。
どれだけ権力が弾圧しても、械闘の文化とその骨子となっている武術は消えることなく、むしろ広まることになった。
これは中華文明にどれだけ械闘が根差しているかという証明であり、また武術という文化が根深いところに存在しているかという証ではありませんでしょうか。