今回インスパイアされたのはこの記事です。
“怒りとねたみは、ナルシストに強く表れる感情です。”ということが書かれています。
なるほど、自己愛性人格の人格障害者ならそれはわかります。
しかし、健常な人間で嫉妬なんて安い感情恥ずかしげもなく持ってる大人なんてほんとに存在するの?
と思ってたんだけど、社会学を学ぶに連れ、ほんとにいい大人でそんなんが居るらしいことが伝えられてくる。
深刻な病弊だなあ。
みじめな連中だよ。
そういった私に、いや、そんな人間はいっぱいいて、ほとんどの人間がそうなのではないか、と言ってくれたのは私の友人たちでした。
ともに医学博士です。
片やは恵まれた家庭を持ち、自他ともに認めるほどに奥様と仲が良く、二人のかわいらしい娘さんが居る。
もう一人はまだ若い才色兼備の女性です。
明らかに、表層的な社会価値観で言うなら恵まれた人々でしょう。
しかし彼等でさえリンクに書かれたような人格に関して理解をすると言います。
彼等選良とは真逆の環境の、クズの町でクズどもを友としてクズの中で育った私はまったく嫉妬なんてものが理解できない。
先日、日本の最高学府に受験することに挫折した生まれそこないの小坊主が、受験会場で襲撃事件を起こすと言うことがありましたが、恐らくはそのモチベーションには嫉妬があったのでしょう。
そこから察するに、要は近しい物に嫉妬が生じやすいのかもしれない。
私のように野良犬の中で育って最低の町のクズとして生きてきた人間が、もしも日本の最高学府に受験をするような選良を目の当たりにしても、恐らく「へー」としか思わないでしょう。
これは人格が優れているとかそういうことでは決してありません。
単に「関係が無い」からです。
そして自分たちが社会の底辺の町のクズだと骨の芯から知っているから、良くなろうと言う努力を惜しめませんし、そのためのヴァイタリティの分配に注意深くなります。
受験会場で事件を起こせば自分がテストに合格できると言うのなら頑張って大事件も起こしましょうが、当然そんなことはないわけです。
まったく無駄な労力で、そんなことをする暇と余力があればチマチマ勉強をしてささやかな資格を取るなり、運動をして疲れにくい身体を作ってヴァイタリティのリソースを作るなり、本を読んで見当識を養うなりしておかないと、将来どうなるかわかりません。
おそらく、自らを養うと言う根本的な努力をおろそかにして他人の言うことを必死でやることが努力だと言う無思考な生き方をしてきた人が、ジョーカーや爺カーになりさがるのではありますまいか。
そういう人たちは、自分を削って他人の犬になっていれば、自分は社会の底に沈むことは無いなどと言う現実逃避的な信仰を支えに生きてきたのではなかろうか。
もちろん、そんなことはありません。
何の理由も法則性もなく、人は生活のバランスを見失って社会の底に沈んでゆきます。
私たち底辺の育ちの人間は、そのことをよーく見てきています。
他人の犬になっていれば安全だなどという信仰は爆笑物でしょう。
オウム真理教の事件が起きた時に「なぜあんな選良たちがあんなあからさまに胡散臭いペテン師にあっさりと騙されたのだ」という声が世間に満ちていましたが、簡単なことです。彼らは自分で判断をせずに他人の意向に従ってばかりきたからでしょう。
海千山千で互いに合い食み盗みあって生き抜いてきたような荒くれの職工ややくざ者が、あんな十人並みのペテン師に信頼を置くことはありません。
「へっ、やってやがる」とせせら笑うのが堰のヤマでしょう。
あるいはもっと世故長けた連中なら、いいツルだとおだてて吸い上げるかもしれません。
嫉妬とは隷属性に伴う物なのではないでしょうか。
自分は自分だし、自分のことで必死になってたらそんなことをしても一文にもならないということが分かります。
と、思っているのですが、どうもこれは私だけが思っていることらしい。
嫉妬なんてぜいたく品をしゃぶる余裕はないよ、というのは元々私がそんな甘ったるい感情を持っていないからのようです。
これは以前から当たりを付けているのですが、私の脳の発達の障害かもしれない。
だとすると、私がどれだけ伝統思想の徳を説き、人々に伝えようと生涯に渡って働きかけたとしても、健康な嫉妬心を抱えた当たり前の人々の心に届けることは難しいかもしれません。
だとしても、私はやってゆくしかないのですが。
なにせ、お釈迦さまも「他人と較べることが地獄の始まりだ」とおっしゃられたようですので、共感の有無は置いておいて、正しいとされていることを訴え続けるしかないのです。
私はやっぱり、自分ガチャは当たりだったと思って、良かったなあと感じながら日々、幸せな愚か者として暮らしていますよ。