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現代社会における性神神話としてのジブリ作品 4・ハウルとカオナシ

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 今回の一連の記事群で、最後に取り上げたいのは「ハウルの動く城」です。

 私の気のせいなのかもしれませんが……この作品、影が薄くはないですか?

 原因は、その決して理解しやすくはないストーリーだけではなく、圧倒的に主人公が男性の作品である、という要素が強いような気がします。

 宮崎監督はなぜ作中で女性を飛ばすのかと訊かれた時に、自分が男性だから男性が飛ぶというとあまりに重い物が多すぎるように感じるので他者である女性なら飛ばしやすい、と答えたそうです。

 確かに、同じように男性が空を飛ぶ「紅の豚」では、主人公が空を飛ぶためにはあまりにも多くの物が語られたり、失われたりしています。

 あげく、物語はただ飛ぶことそのものを描くかのような物となり、そのまま終わります。

 つまり、飛ぶこと自体が自己目的化する。

 これはまさに「風立ちぬ」が一本丸ごと男性が空を飛ぶということを描いた作品であることと共通しています。

 対して、宮崎作品の女性はほぼ無担保に空を飛びます。

 初期作品と言えるナウシカやラピュタでそうであったように、少女と言うのはまず飛ぶ物なのだ、というくらいのことになっています。

 ここにそもそもの宮崎作品における性神信仰の要素が始まっているような気さえします。

 今回あつかう「ハウルの動く城」は、空を飛ぶ青年のお話です。

 この作品を宮崎監督は「流れ星にぶつかった少年の話だ」と主演の木村拓哉さんに告げたそうです。

 ハウルは他の作品の少女たちのように、軽々と空を飛んでいます。

 無担保で自由自在に飛び回り、自由自在に、もっと言うなら無責任に生きています。

 物語の世界では大人たちは戦争をしています。

 ハウルの先輩筋にあると思われる「年上の女性」はそんなハウルに社会的な身分に身を落ち着けることを忠告しているようですが、ハウルはそれを避けてただ無責任に生きようとしています。

 一方、ヒロインとなるのは老人になりたがっている少女です。

 性神の文脈で言うなら、これは不毛を意味します。

 豊穣をなさず、すなわち女神ではない。

 心無い古い言葉で言うなら、石女です。

 そして物語は、この不毛の石女と言う状態を回復させる様を語ります。

 ハウルはヒロインに恋をし、彼女を護るために戦うという生き方を選択します。

 それまではただ自由で気まぐれに空を飛んでいた彼は、これによって戦争に参加するための機能にとなってゆきます。

 かつて女性は子供を産む機械だと言った政治家が居ましたが、彼はでは男性は何をする機械なのかという質問を得られなかった。

 もしそれがあったなら、幾分かは印象が変わったかもしれません。

 愛する物に性的な吸引を覚えたハウルが、その答えです。

 彼は戦闘機になってゆくのです。

 戦うための機械となってゆき、人間性を失ってゆき、その姿も戦うためだけのおぞましい怪物に変化してゆきます。

 この変化の果てに合ったのが、あの発言をした政治家であったとしてもおかしくはない。

 物語の目的の成就は、ハウルが怪物になったことによってではなく、ヒロインがハウルを人間に戻そうとしたことによって叶えられます。

 これはすなわち、千と千尋の神隠しで千尋が神々に対して果たしていた役割であり、その原初の形はナウシカが怒れる王蟲たちに対して見せた姿にその萌芽を見ることができます。

 人間が人間ではない物になってゆき、それを性神信仰の巫女が戻すという構図です。

 この構図に当てはめれば、ハウルとカオナシの間に極めて強い共通性があることがうかがえます。

 そしてまた、ハウルとヒロインの間で行なわれた祭祀は、すなわち婚姻であったということが出来るでしょう。

 彼らの背後で行われていた、原因は分からないけれどずっと続いているという戦争の姿は、すなわち産業化社会、物質社会の運営そのものだと言ってよいのではないでしょうか。

 もしその中で戦うことの根っこが分からなければ、恐らくはすべての人たちがハウルのように心を持たない怪物に成ったり、カオナシになったりしてしまう。

 両者に共通するのは、自分が何をしているのかもう分からなくなっているということだと思われます。

 逆にもののけ姫では、主要人物の多くが自分が何をしているのかを知覚はしていたように見えます。

 その上で相克があったからこそ、次の世界の線引きをするということが可能だった。

 これは、彼らが精神活動をしている市民、士であったということが出来るでしょう。

 だとすれば、ハウルがなっていった怪物やカオナシと言うのは、やはり大衆のことだと言えるのではないでしょうか。

 もちろんここで書いているのは、古代的な性神信仰に立ち返って道祖神でも祀ってろということではありません。

 過去に、人類史の底を支えていた性と生命力の神話とを省みることで、いま、自分が立っている場所を知覚し、自分の性を感じなおすことで自分自身が誰なのかを知ることの一歩になるのではないのか、ということです。

 現在、ジェンダー問題はLGBTQ+の地位向上にとどまらないだけではなく、女性のみならず男性もまた生きづらいということに向かいなおしています。

 同様に、社会の在り方、生産の在り方についてもです。

 すなわち、もののけ姫で語られたパラダイム・シフトと同じ線引きのし直しがされている時代にあると言えます。

 そこで私たちはいまいちど、物質社会に生きる自分の姿を相対化し、自らのフィジカルが自然の一部であることを体感し、生きるということを感じなおす必要があるのではないか。

 その過程の中で、初めて性という身体感覚を通して自浄作用を働かせて、社会参画をする市民にとなることが出来るのではなかろうかと思う次第です。


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