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近代アジアの市民史 3・我が国の鏡像

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 混迷を極めたロシア革命の後、マルクス主義、それを受け継いだレーニンによって社会主義革命思想がソビエトと言う国を形成してゆきます。

 ここまでの流れでお分かりのように、これはつまり、白人優位主義へのカウンターです。

 よって、当時の西洋白人社会で起きていた資本主義運動へのカウンターとなります。

 この運動の中で中国への展開の中で共産党が生まれ、朝鮮半島への展開としては金家が発展してゆきます。

 日本の侵略と同じ西洋社会、白人優位主義社会への抵抗活動だったと見なすことが出来ます。

 その大一番であった第二次大戦が終了し、ペレストロイカに至るまでソ連という国はそのままで運営をされていた訳ですが、問題はこの間、相変わらず社会主義の名のもとに市民層が形成されていないということです。

 そのような西洋資本主義のジェントリ階層などが、社会主義体制下で育成されるなどということは国が許しはしません。

 つまり、民度は一貫してロシア革命時の小作人、農奴のまま。

 つなわち、儒教で言う処の小人、肉体労働者=奴隷のままです。

 ペレストロイカ直後、ロシアン・マフィアやロシアン・ブライドと言う物が近隣諸国に流出しました。

 これらはつまり、何もない、国の運営がまともに出来ない政府からのアウトロー的亡命者だということでしょう。

 私が人生においても非常に大切に思っている小説「カリフォルニアの炎」には旧ロシア貴族の家に生まれて特殊工作員だった男が、ユダヤ人社会に潜入してアメリカに亡命、そこで資本主義の豊かさの中で自分を見失ってゆく様がつぶさに描かれています。

 最低の町で育った私には、豊かさへの彼の憧れがとても強く共感できました。

 もし、手段のいかんを問わず国を離れることがなければ、ペレストロイカ直後のロシアの人々はみな食糧不足に苦しむことになりました。

 ロシア革命の時と何も変わっていない!

 労働者は賃金が受け取れず、現物支給としてバケツ一杯のジャガイモを受け取るのですが、それでさえも流通が十分ではなく、食料をえるためには長蛇の列を経なければならなかった。

 これが、いま20代のロシアの子たちが子供のころに見ていた景色です。

 そして、そのままほぼ根本的な変革が無くいまに至っています。

 それは、ゴルバチョフさん、エリツィンさん、メドヴェージェフさんと続いた政局をプーチン氏が受け継いで半永久的にその座に居座っているためです。

 倫理的な是非はひとまず置きましょう。

 ここで問題としたいのは、すなわちそれが、ロシア建国以来、ずっと市民層と言う物が育まれていないということです。

 百年以上ずっとですよ。

 先ほど、ロシアの動向は中国や日本と同様の物であると書きました。

 となると、同じ経緯を共有するアジアの国として、我々はこのロシアの市民不在の社会を自分たちの鏡像として見ることは出来ないでしょうか。

 ペレストロイカと前後した90年代の大不況以来、日本もまた一切経済的成長に有効な手を打てないまま、人口減少を続けてゆき、社会自体が地滑りを起こしています。

 これはつまり、問題を直視してまともに物を考えて社会参画が出来る市民層が形成されていなかったからなのでは?  

 軍国時代から何も変わらない軍国的精神主義を維持し続けて、ガス抜きとして同一線上のスピリチュアルなどを唱えている民度の低さは、産業革命以降の北半球の歴史を考えた時に、必然だったといえるのではないでしょうか。

 私が現在のパラダイム・シフトにおいて産業革命以降の歴史に注目して発信をし続けているのはこの視点のためです。

 いまこそ自分たちの歴史と現在の姿を見直して、愚民社会を自浄してゆくことの寄る辺とすべきではないでしょうか。 

 百年以上も遅れてしまった我々日本の民主化の歴史ですが、ならばこそ後発の利点を活かすことが出来るとも言える訳です。

 歴史より学んだ我々が行うべきは、理性より感情が優るという恐怖政治民主主義の過ちを参考にして、それ以前の知性によって理性を基とするという市民階層の発育を促すべきでしょう。

 ただ知識、知性だけをして学びと呼ぶかぎり、感情優位の誤謬を正すことは難しいでしょう。

 いまの世の中、一定の知識などはタダ同然と言っても良い。

 そんなことに一喜一憂していては人間の価値もまたタダ同然になりかねない。

 まずは自ら学び続けると言う姿勢を通底させることが大切なのではないかと思われます。

 近年流行した言葉に「上級国民」という物がありました。

 見るだにおぞけを振るうような頭の悪い言葉ですが、このような言葉に疑問をいだかない大衆には、おそらくはまず社会の階層と言う物が見えていない。

 上級国民だなんだとでっちあげる前にまず、自分たちが大衆と言う階層から市民層に向上しないと話が始まりません。

 そのためにまず、自ら学び続けるというライフ・スタイルにシフトし、知性を獲得しなければなりません。

 その知性段階で到達したところでようやく、見えてくる物が理性の段階なのではないでしょうか。

 知性の段階は到達ではありません。あくまでそこで物が見えてくるという過渡の段階です。

 その先の理性の段階は恐らく、現行の大衆の段階においてはうかがい知ることも難しいことだと思われます。

 この構造は、アジアにおいても儒教の思想の中で本来説かれ続けて来た物です。

 知性にとどまらず、徳目、精神の段階に行かなければ市民とは言えない。

 それを理解してこそ、我々の社会は市民階級の確立を獲得し、まっとうに機能する近代国家への発展が可能なのではないかと考える次第です。


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