以前に、ユーチューブ上を舞台にしたバレエ業界での騒動について書いたことがありました。
その時以後も、当事者以外のユーチューブ配信者からこの件に関しての動画が発信されています。
それらを観ていて改めてこの世は絶望的だなと思ったことがありました。
というのも、相変わらず彼等否当事者の配信者は、大衆性以外の価値観で語ることがない。
大衆性を至上とする感情論を恥ずかしげもなく巷間に配信してしまっている。
そういう人間がはびこっているのがこの大衆社会なのだということを痛いほどに思い知らされています。
そして、であるからこそこの俗事からは学ぶことが多い。
この状況にたまりかねたのか、別のプロバレリーナからからも発信がありました。
彼女のことをCさんとしましょう。
このCさんは海外の複数の国立バレエ団で踊ってきたという実績のある人で、どうも大本であるAさんの実績に関しては「聞いたこともない」と言う発言をしており、かなり高いレベルのダンサーだということが表明されています。
彼女のスタンスは基本的にはBさんと同じで、うろんげな活動をしているA氏の仕事には賛成していないようでした。
この「聞いたこともない」ような舞踊団を立脚点としているAさんの活動に対して、どうも上位の舞踊家からの意見は厳しいようです。
これは門外の人間としては「なるほど、そうであるのだなあ」という思いで、これが答えで良いのではないかという気が個人的にはします。
昔、キムタクさんがまだ若くて(まぁ、彼は私より少し年上なのでこのような表現をさせていただきます)絶頂期だったころ、世界的に活躍する男性バレエダンサーが「バレエ界のキムタク」と表現されていたことがありました。
それに対して当のバレエダンサー、この方をDさんとしましょうか。Dさんは「あんなのと一緒にするな」と憤慨のコメントを公言していたのですね。
これ、もう二十年くらい前のことでしょうか。その時もすごく納得したので記憶に残っています。
キムタクさんのファンの女の子たちはもしかしたら「そんな言い方しなくたって」と思ったのかもしれませんが、そういったキムタク氏の純粋なもらい事故を除けば間違いなくこのDさんの発言は正論だと思うのですね。
一つの国、テレビ業界、女の子たちの人気者、ジャニーズを代表するアイドルという極めてローカルなトップ・スターと、数世紀の伝統を継承している国際的なバレエ業界で最初のトップスターになった日本人て、全然並列じゃないですよ。
たかだか髪型が似てるとか、トップスターという表現の大衆化として「バレエ界のキムタク」というのは明らかに上下の逆転現象が起きている。
元々マスコミと言うのが大衆に向かってロウ・ブロウな低い球低い球投げて行って小銭を得るという商売なのでしょうから「バレエ界のキムタク」というような恐ろしい言い回しを出来てしまったのでしょうが、本当に恐れを知らない発言だとさえ感じます。
そして世が進んで大衆がさらに調子づいて力を持って、いまとなってはこのDさんの発言にも「キムタクに失礼だ! 上から目線だ!」というようなことを平気で言って恥ずかしがることもない人間が出てくるような世の中に出てきてしまった。
この恐るべき大衆のきつさ。
これを象徴する物として、Cさんの見解動画に対するコメント欄が挙げられます。
そこには「性格悪そう」「顔が悪い」というような根拠のない中傷とルッキズムを恥ずかしいとも思わないような言葉が沢山目に付いたんですね。
バレエの技術や歴史を論拠にした発言なんか全然ないんですよ。
人が自分の歴史や労力と言う命を賭して得てきた見解を発してることに対して、まったく関係の無い容姿に対する悪口をわざわざ書き込むというような大変な頭の悪さを持っている人が溢れているんですね。
繰り返しますが、本当に恐ろしい話ですよ。
これが私が平素繰り返している「バカの国」ということの具体ですよ。
「論」と言う物を持ち合わせていないホモサピエンスがこんなにも野放しになっている。
でね、この後の展開が勉強になるところです。
そういった状況下で、さらに別のバレエダンサー、Eさんが見解を述べる動画をドロップしました。
Eさんはエンターテインメントよりの方で、年齢は当事者二人より上の世代だそうです。
この方は本人曰く、BさんやCさんのような国際的なバレエダンサーではないと、恐らくは謙遜もあった上で意見を述べられていました。
最初にこう書くのは、発言するにはそれがどの立場からの物なのかということが明確でないと有効性が不明となるからです。
この方はちゃんと、そういうことが分かってる筋の通った方なんですね。
EさんはAさん、Bさんの立場のどちらに寄るでもなく話した上で(先に自分を下に置くという仕様を前提としている訳ですからね)、そういったトラブルがなぜ起きたのかという意見を展開してくれました。
自分の立場という前提を設置し、その上での全体の状況の歴史を掘ってゆく、という実にちゃんとした姿勢です。
ここでEさんへの信頼が高まらざるをえず、その「論」に信頼をおいてお話を伺ったのですが、曰くにはこの問題の背景には、日本のバレエ業界のダンサーへの待遇の悪さがあるそうなのですね。
この信頼のおけるE氏、というか、私の平素の論からするとこの方はもう士ですね。
E士は自分は国際的な活躍をしたことが無いので、外国では国から助成金などが出ているので事情が違うのでしょうが、と前置きした上で(これもBさんやCさんの視点を明確に説明していてとても素晴らしい)、そういった環境にない日本のバレエダンサーがどれだけ金銭的に恵まれていないかという事実を説明してくれていました。
Cさん曰くの「聞いたこともないような舞踊団」のAさんの行っているようなポピュリズム体制は、そういった日本の金銭に繋がらないバレエ関係者への仕事を作るための物であろう、という論が展開されます。
これは、非常に納得が行きます。
下品なサムネで釣りを多用したA氏の活動は、上に書いた大衆向けマスコミと同じく、大衆に向けて低い球低い球と投げて行く物ですが、これはそういうところに届けるための仕様であり、理由はそうしないと日本のバレエ業界には暮らせるだけの資本が流れ込んでこない、ということです。
これでAさんの事業にも非常に納得が行きます。
これは、E士の説明が無ければおそらくは殆どの聴衆に伝わらなかったことでしょう。
うちの近所にもいくつもバレエ教室がありますが、それらが教室だと分かるのは専用の大きなスタジオが広い道路に面した場所に立地しているためです。
そういった路面店バレエ教室を目にしていると、無意識にバレエと言うのは経済としてちゃんと循環している産業なのだなと思い込んでしまうのですが、実際はそうではないのでしょう。
だとしたら、Aさんがポピュリズムの水路を作って自分たちの土壌に実りを求めようとしたことはよくよく理解が可能です。
そしてその上で、BさんやCさんのような上位者が「あれは違う」というのは当たり前のことであり、それでいいんじゃないの? という気がします。
だって、Aさんクレバーに違う物としてやってる訳ですから。
それがAさんの事業目的に含まれているはずでしょう? 違わないなら同じことやってるはずですから。
なので、それを批判するB氏の意見も、口調に関してはともかく主旨としては頷けるものでしょうし、Cさんの意見も当然の感想だと思います。
Cさんは自分の見解として、私が猿芝居と称した例のあらかじめ泣く時にしがみつく要員として隣に恋人を用意しておいて動画のいいところで泣き崩れて彼女に縋り付くというような演出に対して、私と同様の見解を述べていましたが、やっぱり、そうなりますよね。
私も自分たちは収入の多くと人生の多くの時間と労力を割いて武術を学んできましたし、仏教圏に伝播しているアジアの身体哲学についての研究をしていますが、それは決して対価のためではありません。
それらが真実なので追及をしているだけです。
ほとんどのまっとうな武術家と言う物が同様のことをしており、またヨギーニの中にもOLさんをしながら定期的にインドに修行に出て少人数の生徒さんを取っているという友人もいます。
古武術時代の私の先生はほとんどお金を取らずに私に術を与えてくれたですが、そのたびに「先代から言われているのだけれど、決して武術を商売にするな」と繰り返していました。
将来の不確定な若い衆に必要な注意だと思われたのでしょう。
自ら商売にしないでただひたすらに正しいことだけやっていても、圧倒的な実力があってまた人や環境が付いてくるような状態であればそれは収入源になることでしょう。
しかし、そのレベルでない人間が、無理に手練手管で商売にするなら、どうしてもクオリティは落ちる。
昔から言われている大衆化というのはそういうことでしょう。ファースト・フード化です。
某パンク・ロックのカリスマが「一番売れてる食い物が一番旨い食い物なんだったら、世界で一番のごちそうはカップヌードルだ」と言ったそうですが、そういうことですよね。
カップヌードルが一番美味しいと思って行きていたい人たちはそこで良いですが、少し視点を変えればもうちょっとよい物っていまの日本の環境でなら、多くの人にとって手に届くでしょう。
なのに、それを指せないで「いや、カップヌードルだ。カップヌードルが正しいんだ。だってみんな食べてるじゃないか」と言ってあなたの食卓にカップヌードルを置いてくる人達、本当にあなたのことや多くのあなたの集積である世の中のことを思っている人たちだと思いますか?
そして、そうやって人の食卓にカップヌードルを置いて利益を得ている人たちが、そのお金でもって家でカップヌードル食べていると思いますか?
これが、資本主義社会における大衆化という物の典型であり、産業そのものの従事者でなくて営業担当者が利を得るという仕組みの実態ではないでしょうか。
そういう営業担当者、私は詐欺師と呼んで恥じません。
Eさんが明かしてくれたように、すべての大衆の問題はお金なんですよ。
この金と言う価値以外の物を持たない人たちが、真や善について思いを馳せることはないという証のような一件でした。
これには、確実に長きにわたる日本経済の衰退が社会に影響をもたらしているという歴史があると言えましょう。
問題は、A氏のような大衆ビジネスそのものでは、おそらく、無い。
問題になるのはA氏と大衆の間に入って扇動をし、BさんやCさんの足を引っ張ったり、Dさんのことを「バレエ界のキムタク」などとう言う様な中間の営業業者でしょう。
カップヌードルの製造業者に罪はありません。外部営業の連中の扇動にこそ悪しき影響力がある。
昔、マスコミで働いていた頃に、同業の編集者たちが飲むたびに言うのが「俺たちが世の中を動かしてるんだ」ということでした。
何も作っていない、何も生み出していないただ中間に入っているだけの人間がそういう意思を常に懐に抱いていた。
こういう中間搾取者たちが世の中を悪くしている。
ポピュリズムを煽る配信をしたり、実力者と大衆を敵対させるような構図を流布して利を掠めようというような詐欺師たちが常にいます。
そういった人々のエンターテインメントを分っていて消費するのは趣味嗜好の自由です。
しかし、彼らの口先三寸を真に受けた途端に、人々は沢山の物を奪われてゆきます。
ホストにはまって身を売るに至った国税庁のお役人もそこに居たのでしょうし、反ワク運動に飲み込まれて行った近所の奥さんも同様でしょう。
水商売の人間やデマゴーグを流す連中とは、一定の距離を置くたしなみが必要です。
嘘を嘘と分かるだけの知性が要る。
自らのだいこどもに自分の人生を売り渡す必要はありません。
世の問題は、巨悪ではなくて小盗のようなやつばらであると言うのはこういうことでしょう。
村上春樹は80年代末に「TVピープル」という短編を書きました。
世の中の隅に存在している不気味な小人の姿を描いた小説です。
その二十年後に書かれた長編「1Q84]は、パラレル・ワールドの80年代を描いた物語でそこにはTVピープルを思わせる「リトル・ピープル」という物が現れます。
「ビッグ・ブラザーはいない。いるのはリトル・ピープルだ」という上述の「巨悪ではなく小盗のような連中」と対応したような言葉が語られます。
もちろん、この作品のタイトルはオーウェルのディストピア小説1984を下敷きにした物であり、村上春樹がこれを自身のディストピア論として描いたことは想像がつきます。
この作品について村上師は「精神的な囲い込み」の物語で、物語と言うのは読み手の精神を深く、広くすることでその囲い込みから脱却させるもので無ければいけないと語っています。
人々の精神を囲い込むのはどのような人間でしょう?
リトル・ピープルとは文字通り、小さい人、小人だと読むことができます。
人々の精神に囲いを作り、物を考える力を奪うことで自分が得をすると思う手合いの人間たちが要る。
そしてそうやって扇動された小人達の世界の現状がいま、ポピュリズム問題として世界情勢の重要な議題となっています。
この大長編はベスト・セラーを記録しましたが、村上師自身は「大事なのは売れる数じゃない。届き方だ」と発言しています。
まさに、今回の騒動で中間に入っていたいかがわしい配信者たちと真反対の意見ではないですか?
今回のこの件、断面図を観ればまさにいまの世の中の仕組みが非常によく勉強出来る案件だったと思っています。
どうかみなさんも、簡単な物に自分自身の精神と存在をたやすく売り渡しておしまいになりませんよう。
なにせそれではあまりにもったいないですから。