さて前回、老荘が求める生の質とは何かを書くというお約束をしました。
この生の質、クオリティ・オブ・ライフと言う言葉、最近は俗用されて随分安っぽい言葉になっていますが、この言葉の背景には西洋哲学があります。
元々、西洋哲学と言う物が世界の本質を理解するための思想だということは書きました。
これを「本質看取」と言います。
ではそうやって世界の本質を掴んでどうしたいのかと言うと、これが、人間の自由な生き方を模索したい、となるわけです。
結構能動的に、どうしたい、という目的意識がある学問なんですね。
ですので、その目的のためにはどうしても世界の本質を看取しないといけない。
そこで古代の哲学者たちが想定したのが、物事にはある種の理想形のような本質があり、我々は自らの能力に制限されていてその完全な形を掴めていない、という考え方です。
確かに我々多くの現代日本人は、何もない草原に行っても大して先まで見ることが出来ません。
アフリカで暮らしていた頃のオスマン・サンコンさんのようにメチャメチャ遠くまで見通せるような視力はありません。
このように、我々人間は不完全であって本質を看取できなくなっている。
不完全さのエピソードで面白いのは、元々人間は球体で手足が二対あり雌雄同体の生物であったが、男女に分裂してしまったがために二体で一対とならないと繁殖が出来なくなってしまった、というお話です。
それくらいに、人間と言う物は不完全なもので、元々の球体で雌雄同体の「本質」が別にあるのだ、と彼らは考えていた。
この本質である最も完全な状態の姿のことを「イデア」と言います。
西洋哲学というのはこのようなプラトン、ソクラテスの時代の学問を土台にして積み上げらえていますから、このイデアという物をいかにして掴むのかと言う方針で学問が継承されてきました。
しかし、近代に至ってから「人間に本質などはない。あるがままのいまの状態がすべてだ」という考え方が興ります。
現代日本人からすると「はい……そうですね……」という感じですが、これは人類と言う物が特別な選ばれた存在であって、我らのためにこの世界は神によって用意されたのだ、と考える白人種にとっては特筆すべき考え方だったのですね。
このように、人間には本質などなく、いまの在り方がその人の存在だ、という考え方を実存主義と言います。
そして、老荘思想のことを「東洋の実存主義」などと呼んだりします。
つまり、人間には(人間以外にも)本質や意味などはない。
ただ因果の結果としてそこにあるだけだ、ということになります。
そんな、自分の存在に意味が無いなんて、と敬虔なクリスチャンたちは大変にショックを受ける考え方です。
なので、実存主義者であるニーチェ君は「神は死んだ」と引導を宣言して「無神論」という哲学を展開したのです。
彼がと東洋思想に傾倒していたことは書きましたね。
老子の考えでは、気が集まればすなわち生、気が散じればすなわち死、とシンプルに生命への見解が表現されています。
気とはエネルギーだと言うことは前に書きましたね。
つまり、物質的なエネルギーが集まればそこに生命が顕れて、そのエネルギーが尽きれば死ぬという極めて科学的、物理的な考えをしています。
そしてその物理の働き、因果の連なりを「タオ」と呼びました。
つづく