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あらためてタオについて 13・大道

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 老子の思想を引き継いだ荘子は、さらにその本質の無さを突き詰めてゆきます。

 すべての物はタオという因果の結果あるだけで、犬の糞も美女も本質的な価値は変わらない。という考えをします。

 西洋的な人間中心主義はしていないので、世界そのものを物理的にとらえています。

 犬の糞は虫たちにとっては宝の山であるけれども、絶世の美女などはなんの価値もない。

 美女の価値をあがめるのは人間だけです。

 そして人間などは世界の中で僅かな場所をしめているちっぽけな一種類に過ぎない(少なくとも彼の生きた紀元前には確実にそうでしょう)。

 ですので、物事の価値などは受け取り手がちっぽけな己の都合で作っている損得程度の物に過ぎない物なので「意味」などは無いという考え方をします。

 これを斉物論と言います。

 物事の価値は受け取り側の都合であって、本質的にはみな同じである、という論です。

 荘子の故事を読むと、そのようにして物事の価値観を相対化するようなエピソードに満ちています。

 荘子の思想が逆説に満ちていると言われるゆえんの一つでしょう。

 有名なのは、奥さんが亡くなったときに弟子がお見舞いに行くと、荘子が茶碗を叩いて唄っていたというお話です。

 すわ、先生取り乱したか、と言えばそうではなく、奥さんが亡くなって初めは哀しかったけど、考えてみれば自分もまだ死んだことがあるでなし、死が悪い物とは言えないじゃないか。ならば死を悲しんでいるのは己一人の勝手な感情だ。死んだ妻本人は死んでみたら素晴らしいことだということが分かって大喜びしていることさえあるではないか、と気づいて悲しむのを辞めたというお話です。

 価値観などは感情であり、感情などは卑小な物なので気にする必要なし、という感じです。

 荘子先生は、草鞋編みをしているような貧乏人でした。

 ただ、現在にも思想が残るくらいの人物だったので、どうも当時から一目置かれていたらしい。

 ある日、彼の友人で殿様就きの役人に出世したした者が、上から賜った立派な車に乗って彼を訪ねたと言います。

 ひとしきり自慢をして「で、お前は日ごろ立派なことを言っているがどのように立派な暮らしをしているのだ?」と尋ねたところ、荘子は「君も王様の尻を舐めたのかね? 自分はしていない」と答えたと言います。

 これは、当時、痔の治療法として人間が舐めるという物があり、それをするとご褒美に宝物や馬車がもらえて出世をしたという背景があったからだと言います。

 現在でも英語文化圏では恥を知らないゴマスリ屋のことを「ケツ舐め野郎」などと言いますが、あれ、紀元前の中国がルーツなんですよ。たぶん。民明書房みたいな話ですが。

 もしこれが孔子様の儒教などだったら「もって盗泉の水を飲まず」なんて居住まいのよろしい言葉を言うのですが、荘子先生はすぐに犬のクソだとかケツ舐め野郎だとかのパンチラインを遺し始める。

 ではなぜそのようなことを言っていたのかと言うと、老荘と言うのが社会を権力社会、物質社会として発展させた儒教へのアンチテーゼだったからです。

 荘子先生は「生贄の仔牛というのは、大切に育てられてきれいな衣装を着せられて飾り立てられて儀式では祭り上げられるが、最後には殺されてしまう。それよりは田んぼのドブネズミになって自由に生きる方がずっとよい」と言うことを言っています。

 これが荘子の本質看取で在り、人が自由に生きるための回答です。

 リンダ×リンダの元ネタですよ。

 そしてこの、生贄の仔牛というのが、まあ偶然なのですが、孔子様一派のことです。

 出世だ富だ名声だと言いますが、必ず最後には失脚したり、自分が頼ってた権力者がそうなることで、責任を取って殺されることになる。そんなことのために命を使ってどうするの、と言っているのです。

 反社会的です。

 なので彼の思想を、敗北者の思想、と呼ぶ人も多い。

 また、老荘をして西洋人は「虚無主義である」と呼びました。

 本質も否定し、社会的な成功も否定しているからでしょう。

 ここが現代人がタオを理解しようとする上で注意しないといけないところです。

 現代人的、いわば白人優位主義消費社会的な価値観と言うのは、社会派の儒教に近い価値観なんですね。

 それを否定するところに老荘のアイデンティティがあります。

 これを象徴する話として、荘子のお叱言があります。

 例えば人とすれ違ったときに、足を踏んだら人は謝りますね。

 それがいかんのだ、というのです。

 もし、人が世界、天地と調和して本来あるがままだった動物として生命をまっとうしていたら、足を踏んだりなんだりと言うことなど気にするか? 動物がそんなことをしているのを見たことがあるか?

 そんなことをするのは人間だけだ。

 そういう上っ面の礼儀などと言う物が人間を矮小化させてダメにしているのだ。とそのようなことを言う訳です。

 これはもちろん、礼こそが人間社会の規矩である、とする儒教へのアンチテーゼです。

 ですのでこの故事をして「大道廃れて仁義はびこる」と言います。

 大道、とはタオのことです。

 仁義、というのは仁だ礼だと言ってる儒者の価値観のことですね。

 頭でっかちな社会のための価値観じゃなくて、自分の中の自然=命を主体に生きろよ、と彼は言っている訳ですね。

 そのために、気功などして命を養う養生の思想と繋がっているのです。

 次回はその老荘の生命の思想についてお話ししましょう。

 

                                               つづく


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