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あらためてタオについて 16・温暖化の影響

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 中庸がどうしてタオ的なのか。

 それは、中庸で語られる「中庸の徳」と言う物が上下左右、どちらにも偏らず中央にある徳である、とされて居るから、というのが一つ目です。

 これは非常に陰陽思想的ですね。

 それだけではありません。

 この中庸の徳は、それまで学問主義であった儒教の考え方とは一線を画して、学問が無い人でも発揮しうると明言したことが二つ目です。

 これはひたすら勉強して努力と根性で出世しろ、と説いていた孔子先生の初期儒教とはニュアンスが変わってきます。

 孔子先生が女人と並んで度し難しと評した小人でさえ、人によってはこの中庸の徳があると言えるので、いわば原典への否定、原理主義への否定であると見なすことができます。

 これだけではまだ、タオと儒教の繋ぎとしては弱いと思われる方もあるかもしれません。

 そういう方のためには中庸と同じ四書の一つ「孟子」を取り上げたいと思います。

 儒教と言えば孔孟の思想というくらいに孟子は偉大な儒家の代表ですし、生きていた時代は紀元前四世紀と非常に古典のようなのですが、実は長い間、あまり評価されていなかった不遇の思想書です。

 それが唐の時代になってやっと目を向けられて、南宋の朱熹によって四書の一つに挙げられたことで儒教のマスト・テクストとなりました。

 その孟子には「浩然の気」として気の思想が入っています。

 ほとんど老荘です。

 だからこそ、長らく儒教の中では評価をされてこなかったのかもしれません。

 この浩然の気と言う思想、単に宇宙観のみならず、それを吸収するという気功の類を行っています。

 これは完全に意図的に儒教にタオを取り込んだと言えます。

 朱子が、時代の変遷の中で古典のままの儒教ではもはや対応に限界があると見なしたためにそのような変革をもたらしたと言われていますが、その背景にちょっと目を向けてみましょう。

 前に、三世紀くらいから地球の寒冷化が始まってそのために北部の騎馬民族が南におりて来てローマ帝国崩壊の一歩をになったということを書きましたね。

 この、宋代の前の時代、唐の時代ごろから、今度は温暖化の時期に地球環境は移行しています。

 唐の時代、長安は世界最大の国際都市でした。

 科挙制度によって試験に受かれば誰でも役人になれたため、外国人の官僚も多かった。

 唐の時代を代表する人物、楊貴妃を死に追いやるきっかけとなった安史の乱というクーデターを起こした軍人の安禄山も、ソグド系の外国人でした。

 ソグド人というのは、ペルシア系の人種のことです。当時は仏教徒の民族で、彼らはよりインドに近いその地理上の理由から、中国に仏教を広める一因になったとも言われている民族です。

 この時代は、ギリシャ時代から続いてペルシャ人が栄えていたのですね。

 しかし、中東系人種にもこの頃から大きな変化が訪れます。

 それは、預言者ムハンマドの誕生によるイスラム教の成立です。

 これは既存の中東の勢力図を塗り替える物でした。

 また、温暖化が始まったことによって作物が盛んに実るようなったので、今度は北方の騎馬民族が西側へと侵攻してゆくようになりました。

 寒冷期は作物が南に行くので彼らは南に略奪にゆくのですが、日が暖かくなると太陽の軌道に乗っ取って西側に進んでゆくことになるのですね。

 その結果、今度はソグド人たちが追いやられて勢力が衰えてゆくことになります。

 現在、トルキスタン、と呼ばれる場所がありますね。

 これはトルコ人の場所、という意味だそうですが、唐代までの呼び名はソグディアナだったと言います。意味はもちろん、ソグド人の地、という意味です。

 この件に示されるように、ソグド人たちは衰退していって、逆に勢力を増していったトルコ人に敗北してゆくことになります。

 温暖化による人種への影響は唐の時代から乱世を挟んだ宋代にも続いてゆきます。

 宋の時代は初期の北宋と後期の南宋に分かれますが、国が分断したきっかけは温暖化で活発化した騎馬民族の金がやはり中華側では南下してきて国土を分捕ったからです。

 そのために宋朝は南部に避難して、王朝を南宋へとスライドさせました。

 北部は金王朝として並行した歴史が刻まれてゆきます。

 こうして中華の中心が南に移行してゆき、北は騎馬民族からの侵攻に耐え、南はトルコ人とも上手くやる、ということが求められたのが宋の時代です。

 その国際情勢の中で、漢民族の天子がいい人だったら天が良いことをもたらしてくれる、という古典的な儒教の発想ではもうちょときつくなってきてしまった。

 なので、新しい思想が必要だった、というのがアップデートの背景にある事情でしょう。

 上と下から挟まれた中土が、文明をギュッと合一して固まらなければならなかった。

 またこの時代、船舶技術が発展してそれまでの北部の街道やシルクロードだけでなく、南部の海洋ルートで外国との交流が盛んになったこともこれに拍車をかけていることは間違いないでしょう。

 私の課題である海賊武術の歴史はまさにこれに直結しています。

 海の民たちの海洋文明の影響もまた、中華思想に大きく影響を与えていたのです。

 このようにして、儒教はタオ化を進めてゆきました。

 

                                                 つづく

 


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