Quantcast
Channel: サウス・マーシャル・アーツ・クラブ(エイシャ身体文化アカデミー)のブログ
Viewing all articles
Browse latest Browse all 3388

あらためてタオについて 17・自由自在の境地

$
0
0

 中原の北部が騎馬民族の金王朝に占領されていたころ、騎馬民族は金、梁、蒙、元などの所属が支配権を争いながら西へ西へと領土を広げていっていました。

 これがヨーロッパの悪夢第二弾、ジンギス・カンの時の侵略です。

 これはもうしょうがない。ユーラシア大陸が好き放題に荒らされた時代です。ヨーロッパも中国も大いに騒がされても当然の大事件でした。

 その難を逃れた南部の王朝、南宋というのが朱子の時代の王朝です。

 日本に伝わった儒教の上下関係の厳しさは、このような乱世の戒厳令下のモラルであるから、という部分があるのかもしれません。

 と、ここまでは儒教がタオを取り込んだ経緯を書いてきましたが、一方でタオの方はこれまでの間に道教として土着化をしています。

 物質とエネルギー論を唱えた老子さえ、太上老君として神格化されていますし、仏教の仏様であるはずの闘勝仙仏と言うのはこれ、西遊記の孫悟空のことです。

 この道教の中で、鬼神や妖怪を使役する時に口にするおまじないで「急急如律令」という言葉があります。

 キョンシー映画などで見たことがある人は私と同世代かもしれません。

 この言葉の意味「律令の如く急ぎ急ぎて従え」と言うのは、道士が精怪に言うことを聞かせるための文言なのですが、その背景には律令の権威があります。

 律令と言うのは、皇帝の定めた法律のことですね。

 皇帝と言うのは天子であり、天の意を持つ者である。

 だから妖怪も鬼神も従わざるを得ない。

 そして封建社会を否定して律令社会を築いたのが、前に書いたように科挙に受かって律令を持って世の中を支配してきた儒家たちです。

 道教の中に儒家の思想が入っているとういことです。 

 つまり、佛教、朱子学、道教と、三教のあちらもこちらも結局どこでも混ざり続けているのです。

 佛教の目的は、悟りを開いて仏様となることです。

 朱子学においては、中庸、中和と言う物が提唱されました。

 そして道教では、福禄寿と言う物があります。

 これ、頭の長い仙人がおりますが、これはすなわち、福=幸せ、禄=財産、寿=長寿の三つを神格化(キャラクター化)した物です。

 さてここで思い出していただきたいのがタオの老荘思想です。

 福に関してはともかく、禄に関しては明確に否定していましたし、と寿に関しても否定はしていませんが死を否定してもいない。

 老荘のキャッチコピーと言えば「無為自然」自然のままに、あるがままに、無為に生きるということです。

 これ、儒教のそれである「天人合一」と似ていますが少し背景が変わります。

 なぜなら儒教の天は天子を裁定して利益をもたらす物であり、その天子に祀ろうために人民は日々殊勝に生きるべしという上位下達式の社会構造に由来するものであるからです。

 儒教の天人合一には、天子が天意に叶えばご利益があるよ、という信仰が中核にある。

 無為自然とはまったく違うことがお分かりいただけますでしょう。

 どう違うかをより理解するためには、タオの用語である「知足」という物が役立ちますでしょう。

 知足、足るを知ると邦訳される言葉です。

 これは、儒教が努力をし、出世をし、ご利益を得る、というマイナスからプラスへの1ベクトルの思想であることと対象的です。

 マイナス、あるいは0から人為によってプラスに向かうと言う発想であれば、天、すなわち上と言う物は絶対的な価値を持つ。

 しかし、タオはプラスを絶対視しません。

 それよりも中庸、自然にプラス側になってしまう人生を引き算して0に調整しようという思想です。

 その思想が陰陽図に現わされる。

 陰と陽とがちょうどよい程度で調和していることが良いとされているのですね。

 そのために必要なのが、獲得では無くて「足るを知る」ことです。

 何かを目指して獲得するのではなく、すでにここで満ち足りていることを自覚する、という考え方です。

 自覚と言う言葉を使いましたが、まさに自ら覚る。悟りの思想に通じる物として禅の言葉としても用いられています。

 この、将来や過去の欠落や満ち足りるに意識を払うのではなく、いまこのときにすでに存在している自分が満ち足りて過不足の無い自分である、という考え、これ、西洋思想で言う実存主義に共通する物です。

 この実存主義がそれまでの西洋での「ここではないどこかにある正解」を求めるイデア論哲学やキリスト教に対するアンチテーゼだったことを思うと、タオと儒教の関係を当てはめたくもなります。

 すなわち、儒教は東アジア圏における古代西洋哲学やキリスト教に相当する地位にあったのだ、ということです。

 タオはすべてを相対化し、イデアもポジティブも分解してしまいます。

 すべては起きていることがすべてで、人為を越えた意味も人意もそこには無い。

 過去はもう存在していないし将来はまだ存在していない。

 いま、ここがすべてです。

 これを現した言葉が「游」です。

 遊ぶという字のしんにょうの代わりにサンズイが設置された字ですね。

 しんにょうというのは道、陸路を現す象形文字です。

 サンズイは水を意味しています。

 つまり、陸に囚われた道路にあるのではなく、水の流れの中のようなタオの流れを住まいとしてそこで働く力に乗って自由の境地に浮遊しよう、というようなニュアンスの言葉です。

 そこで働いている力とはつまり、古語で言う「気」ですね。

 世界に働いている気の働きの身を任せて自然のままに生きよう、その時、人為などないのだから自由である。

 これがタオの思想です。だから無為自然なのです。

 ですので我々は、気の働きを感じとる修行である洗髄、その力の働きを活用する易筋の二種の行を行い、瞑想をして日々を生きると言う次第です。

 以上があらためて一気にまとめた私の学んできたタオの概要でした。

 いや、大変長いお話でしたね。お付き合いいただけた方がいらっしゃいましたら、ありがとうございました。

 


Viewing all articles
Browse latest Browse all 3388

Trending Articles



<script src="https://jsc.adskeeper.com/r/s/rssing.com.1596347.js" async> </script>