かつて私が、たった二人だけ読む日本人作家の一人だった夢枕獏先生の本を最近見つけては手にしています。
以前に平安~鎌倉時代を舞台にした作品をこちらでも取り上げましたが、いや、私が修行で十年前後あまり読んでいない間に、本当にすごい作品を幾つも描かれている。
一方、陰陽師の新しい文庫を読んでみれば全部同じような話であったり、一つの文庫の中で被るような内容の物があったりと、まぁベテラン作家相応の感じもあったりします。
それで確認して見れば、バックンもう70越えですよ。
40前後の頃から、自分にはもう生涯に渡って書ける作品数が決まっているのだ、ということを書かれていた先生ですが、実際には年齢ごとにその筆致力のような物もまた変化します。
70を過ぎて40前と同じことが描けるものではありません。
というか、常人なら70ならもうボケてしまっていてもおかしくないし、身体が悪くて身動きに不自由だという人だって沢山いる。
独身男性なら平均寿命は60代だということも少し前に書きましたね。
70越えてこれだけのものを書いているのが凄いのですよ。
十年以上前に、明治の柔術界を舞台にした小説を発表された時に私は「あぁ、バックン、焼きが回ったな。もう焼きバックンだ」と言う感想を持ちました。
まぁ物の見事に内容が、流行作家の手癖の物、という感じの、どこを読んでもいつものヤツだったからです。
こうなってしまったら、職人作家としては活動が出来ても芸術家としては大きな仕事は出来ないだろうと勝手に思ってしまいました。
しかし、そうではなかったというのは鎌倉物を読んで大いに驚かされたところです。
今回、バックンが大菩薩峠をトリビュートしたという作品を読みました。
大菩薩峠と言えば大山倍達先生が繰り返し読んだという愛読書。
武道小説としても興味深くて、有名な猪木・アリ戦の元ネタは作中に描かれています。
しかし同時に、日本の土俗を描いたとしていて水木しげる先生の初期のマンガのような混沌と意味不明のヴァイブスに漂うばかりの作品でもあって、一体何がどうなっているのかまったく意味不明な状況が延々続くという怪作の大長編でもあります。
しかも未完。
そのため私は、全巻を文庫と電子版で持っているのですが、半ばまで読んだところで止まってしまっています。
何しろ主人公だと思った机龍之介が主人公ではなくなって、周辺の奇怪な人物らがみな同じ温泉場に当時で集まってよくわからない混沌とした共同生活をしている様が長丁場に渡って続いており、かと思えば突然ある人物が何かのきっかけで狂ってめちゃくちゃな行動をするさまが延々描かれたり、別の人物が手紙を書きながら心の中で思い浮かんだ(つまり現実にはまったく何一つ起きていない)ことを長々描写するようなシーンがあったりと、ほとんど自動書記で書いているような否現代小説性に、自分が一体何を読んでいるのかが分からなくなってしまったからです。
いや、もちろん、そのヴァイブスのままのいわばアドリブ奏法こそがこの作品のすごいことだ、それがライヴの味なんだ、ということは分かります。
実際、作者の中里介山先生は新聞連載版から文庫化する時に、内容の三割近くを削って意味の分かる整合性を持たせるために必要な部分をこそぎ取っていると言いますから。
まさに幻想小説、実験小説としてのあるべき仕様の姿なのだとは思います。
思ったうえで中途で止まってしまっています。
その物語をバックンがどうトリビュートするのかと言うと、第一巻の最初の所だけを一つの物語にふくらましています。
ですので、そこで登場して後々色んな土俗的な流浪をするキャラクターたちには、登場しただけでまったく意味のない人たちもあらわることになります。
なりますがしかし、本編でもそうなのでこれは仕方ない。
焦点を絞るのはあくまで、奉納試合の部分だけとなります。
そう。剣術家の試合と言うことになりまして、要するにいつものバックンの奴がまた始まるのです。
あぁ、明治のヤツと同じか、と思いながら読みました。
しかし最後、机龍之介を意訳したキャラクターならではのある昇華がありました。
武術描写に関しては、あくまで格闘技小説の文法で描かれており、古武術の中の目で見ればまったく浅い部分で書いていると感じたところは多々あります。
結果、机龍之介の音なしの剣は極めて剣道のような競技の中の手法として矮小化しています。
しかし、それを差っ引いてもこの作品での机龍之介は意味のある存在として描かれていました。
ただ温泉場で具合が悪くて寝たっきりの本編龍之介よりずっと意味があって、この作中世界では本編のあのダラダラしたお話には決して繋がらないということが核心されます。
この小説で、もっとも関心させられたのはその龍之介の物語が終わった後でした。
あとがきです。
あとがきの中で、なぜこの物語を書いたのかが声明されています。
それは「机龍之介という受け身の人はすなわち、この国で受動的、消極的に生きるだけの民衆の姿だ」という言葉がモチーフになっている、という物でした。
なるほど。これで一巻でインパクト抜群に出てきた異様の剣士が、途中から具合が悪くなって温泉場で寝ているだけのダラダラした人間になってそのまま主人公の座を取られることの意味が見えてきます。
さらにバックン先生は、この民衆と言う物を社会状況に対峙した形で語っています。
その文の中には「資本主義という一神教はもうダメなのではないか」という作者の怒りが投影されていることが描かれています。
おお。
もうほとんど、私が平素こちらで書いていることではありませんか。
そういうことをね、バックンはもう十年も前に書いているのです。
そしてその時代の怒りをため込んだ民衆の姿として、机龍之介を描いている。
これはすごいことです。
世が「日本の土俗を描いた否近代小説」とした物のなかに、バックン先生は「民主主義や共産主義が有効性を失った世界における民衆の怒り」としての介入をしているのですよ。
いまのパラダイム・シフトが始まる前に、すでに視点がそこに行っている。
全然焼きなんて回ってないんですよ。
ただ私が、それを見取る力が無かったというだけのお話です。