今回も蔵象からのお話となります。
気功で言う脾と言うのは、脾臓そのものではなくて脾臓や胃、膵臓なども含めた消化器官全般にまで解釈が及ぶ概念です。
胃は胃で胃腑として独立した概念があるのですが、これと脾は陰陽で対となった関係となっていますので、大枠でひとまとめにとることも出来ます。
この脾ですが、五行で言うと土行、すなわち中央の相です。
中華文明において大きな価値を持つ、中央という概念です。
この中央を現す土行の黄色が、広大な黄土の黄色であり、中華皇帝の禁色である黄土色です。
脾に繋がっている感情は思であり、これは思い悩みなどであると言われます。
ですので、思い悩みすぎて病気になると、消化器官に症状が出やすい。
胃酸過多や胃酸過少、十二指腸潰瘍や胃潰瘍などになりやすい。
まぁ、口からドリィと胃液が逆流してくるのが「呑」と言ってこれらの症状の前段階だと言えるのですが、このさらに前段階として「歌」という症状があります。
これは、言葉に節回しが付いたり、あるいは鼻歌のように歌を歌いたくなる、という現象です。
つまり、ストレスがかかってやがて消化器官の負担になる段階で、歌の段階がある。
これはいわば、ストレス軽減の対策として唄っているとも言えるわけです。
昔から各国の民族にある、労働歌と言う物などはやはり、苦しい労働のストレスからここに至っているのではないでしょうか。
また、私の好きなブラック・ミュージックなどはまさにここから来ているのではないかと思う処があります。
とくに、唄うように節回しを付けてしゃべるようになる、などというのはまさに気功思想的にみたラップのルーツのような感じさえします。
昔から私の好きだったものは、ブラック・ミュージックを始めとして、カポエイラ、フィリピン武術など抑圧されて来た人々の文化であることが多い。
中国武術にしても、太極拳のような支配側の物では無くて、革命結社側の物となっています。
こういった、苦しみの中から自由を見出してゆく文化に関心が高いのでしょう。
少林拳の中核にある仏教などは、まさしくそういった物ですね。
そこにこそ、私が思う身体哲学の神髄がある。
私は日本一話の面白い武術家を目指しているカンフー・マスターなので、こういうことを言葉でも現場でも伝えられる人間として居ないといけない。
武術を通して、人を自由にしてゆかないと。