孟子の中にあるエピソードが、私が平素書いてきていることと非常に共通しているので驚くことがあります。
曰く、斉の国にある羽振りの良い人が居たそうで、日々外食をして遅くに帰って来ては、家族には自分は貴人と付き合っていて毎晩飲み歩いていると言っていました。
しかし、一向に家にそれらの人々を連れてくるというようなことはありません。
そこで家人がいぶかしんで彼の後を付けてみたところ、夕方になるとその斉人は墓地に行き、そこでお祀りをしている人の所に行っては配っている食べ物をせびり、それで足りなければまた別の家族が同じことをしている所に行ってへつらっては食べ物をたらふくたべていたと言います。
孟子先生は、世の中の仕事の実態と言うのはおしなべてこのような物で、とても家族に見せられるようなものではないのだ、と結んでいます。
私は繰り返し、現代日本社会の仕事などと言う物は肩書とへつらいで行っている虚業ばかりで大衆化社会と言うのはそのような機構の中にある人間で回されているものだと書いてきていますが、これ、紀元前の中国ですでに言われていたことなのですね。
バカバカしいマナーやエチケット、パワハラへの追従やセクハラへの忍従などと言った形式によって世の中の人たちは仕事をしている振りをするという仕事をしている。
パフォーマンスが仕事だという良くわからないことになっているのは、これは儒教の影響であろうとずっと思ってきていたのですが、どうやら大儒者である孟子先生はこれを否定しているようです。
だとするとやはり、日本社会のこの有様と言うのは、人間の凡庸さが邪進化させた形式主義だということなのかもしれません。
このような人間がまともな物になれようはずがない。
儒教が労働者を小人と呼んで度し難い物だと扱ったのがよくわかります。
制度の奴隷となって働いている人間は、ひとかどの物になりようがない。
また、それへのカウンターとしてただ品性の乏しい暴れ方をする者を模倣したりあがめたりしても同様。
では、一体何をして人はひとかどの物になりうるのかと言うならば、孔孟の思想においては、ただ仁義であるばかりであると繰り返し繰り返し語ります。
そのような物にのみ、天命と言う物が働く。
小人の意図ごときで一体なにが出来ることであろうと彼らは考えているようです。
もし小人がなにがしかの力を働かせたかのように思われる時、それはその個人ではなく、天命がたまたま個人の形を借りて地に影響を及ぼしたにすぎないのだ、と言うロジックです。
バタフライ・エフェクトと言う思考実験がありますが、その時の蝶はただの一匹の羽虫であり、何か特別な力を持った個体ではありませんね。
ひとかどの人、その生きる道について考えさせらえるところです。