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Channel: サウス・マーシャル・アーツ・クラブ(エイシャ身体文化アカデミー)のブログ
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私にはわからん

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 今回、選挙中に元総理が射殺された事件があって、当日の内から私には大きな疑問がありました。

「民主主義への挑戦」だという言論が非常に多かったことです。

 信頼している社会活動家、ジャーナリストの方さえ型で押されたようなこの言葉を使っていたように記憶をしています。

 ツイッター上では多くの人達が同様の発信をしていたように思います。

 もっと低い連中(個人の感想です)は「護身術的にはこうだ」とか「改造銃の作り方は云々」というような下世話丸出しの知能の低い投降をしていました。

 その中で私は、ただその時たまたま読んでいた孟子の表紙を写真に撮って挙げました。

 古典の知識があればこれで私のスタンスは充分伝わるだろうと思ったからです。

 孟子と言うのは、儒家の中でほぼ例外的に、権力に間違えがあればこれを暴持って糺してよし、という見解をした人です。

 結果、宋代まで禁書扱いされていたという歴史があります。

 権力側に都合のよくない儒教、あまり意味がないですからね。

 しかし、権力の横暴を恣にし、民草の血を吸い上げ続け、司法を取り込んで唯一の合法的対策さえも奪い取った巨悪に、個の暴以外のなんの手段が残されているのでしょう。

 タオの視点から考えても、これは当たり前の因果の結果です。

 そうならないために、各人自らの言動を常に調節して考えて、利己的に倫理を持って因果の結果を清算しながら生きる、ということが思想と言う物の実践的な用途なのではないのでしょうか。

 だから古代からの為政者と言うのは哲学をその基柱に取り入れていたのでしょう。

 私は常日頃、自分が安全圏に居て何をしてもタダだと思って踏み倒して生きるような人間は相手にしないと公言しています。

 実際そのようにしていますので、誰かの姿勢にそのような物が見えた途端に交際は断ちます。

 今回の件に関しては、失態を演じた各方面、そのような日本人の悪しき習性が現れていたのではないでしょうか。

 あるジャーナリストの方が、現在若者中心に人気を博している論客に対して「彼は何を適当なことを言っても、法に触れるようなことをしても逃げればそれでいいと思っている。これからはそういう人間が増えると思うよ」と言っていましたが、それこそまさに「ポジティブ・シンキング」の醜い姿の実像でしょう。

 その論客言うところの「無敵」の意味とはそういうことかとも思われます。

 そしてそれはつまり、見渡す限りに顕れるこの国の大衆の姿そのものです。

 なので多くの国民にとってはこの件に関して動揺すべき事態だという認識があるのでしょうが、私にはそれがまったくわかりません。

 暴君が権勢のままに人々を苦しめていたら荊軻が現れるというのは、東洋伝統思想の文化に生きる身には当たり前のことです。

 でなければいかにして天の義が行われるというのでしょう。 

 そしてまた「民主主義」というプロテスタントの思想が、どうしてこれほどまでに絶対視されてなんの咀嚼もないままに論点の神棚に置かれているのかもまったく理解が出来ません。

 どれだけこの国の人間たちは洗脳されているのだと途方にくれるばかりです。

 みなさん、頭でっかちになりすぎて身体の生を忘れ去っているのではないでしょうか。

 自分の命を守るために人に良くするということ、自分の命を脅かされたら相手の命を奪うと発想すること、こんな当たり前のことになぜ色々な粉飾をするのでしょう。


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