先日、ゼレンスキー夫妻が「絶対にしたくなかったお願いをしなければならない。政治家ではなく子供たちの親として、家族や家を守るために武器の提供をしてほしい」と訴えをしていました。
私は冒頭の自己否定的な部分に彼らの自覚と説得力を感じて印象的に思いました。
さて、その上で次の記事をみていただけたらと思います。
ドイツの方がね、ウィル・スミスの行為に関して「有害な男らしさだ」として所有欲や権勢欲の現れであるという解釈で書いています。
というのが私の読解なのだけど、違うのかな? その前提で行きますね。
この方は引き続き、これが男性から女性に向けられる暴力と同じベクトルの物だと解釈されている。
ふむ。
そういうこともあることでしょう。
ただ、これとゼレンスキー夫妻のスピーチに、共通するラインがあるようにも思います。
むしろ、私には本質的に同じ物に感じられる。
それは私がDVをされても、(そのために)したことがないししたいとも思ったことがない男性であるからかもしれない。
このウィル・スミスの論法に則ってみると、子供を守る母親にも同じ暴力性は発生し得ないだろうかと思う。
それは同時に、子供自身の選択から子供自身の未来を守るための暴力性たりえるのではなかろうか?
「躾けのため」は定番のセリフだそうだけれど、本当に躾けのためにということだってあるだろう。
だから線引きが難しいのだとは思う。
そしてそれを踏まえた上で、男性だけでなく全ての女性にも、上記の暴力性、バウンダリー・オーバーによる人権への干渉についてよく考えて、省みてほしいと思う。
暴力的なのは男性だけではない。
どれだけ善良な人間にも力への意思があるとニーチェ君は言った。
これは性別などは関係なく、現政権の大好きなイエの話ではあるまいか。
私の専門分野の話で言うなら、以前に何度か書いたオキシトシンとも関係が強い問題ではあるまいか。
オキシトシンは幸せホルモンとも呼ばれるけれども、その幸せとは群への帰属、同族との繋がりによる安心感、多幸感のことらしい。
原始的な、生物が持つ本能の構造からいまいちどこれらを見直していただける人がいたらと思う。
こういった物がイエを作り、その群の集合として社会という大きな群が成立しているのだ。
世の中とはそういう物だ。
特に、現政権の意図的なデザインはそこにあることが毎日報道されています。
それらをただ巨悪の仕業だとして思考停止するのではなく、自分の行い、身近な家庭に当てはめて、己自信の内面の在り方を相対化して欲しいと思います。
こういった原始の本能というのは自然発生的に内面で喚起するので「当たり前だ」と思い込んで思考停止しやすい。
そして、そういった本能的な物だからこそ、たやすく人に正気を失わさせる。
男女の話で言うなら、男性が「女はバカだ」と思いやすいのは、女性がホルモンの影響を受けやすいという事実に由来していることが多かろう。
脳内で論理性が一貫して形成した理性と言う物が正気であると前提するなら、ホルモンの影響を受けた脳はたやすく正気を失う。
だがそれは女性だけのことではありません。
ホルモンに影響を受ける感情全てがたやすく正気を失わせます。
ホルモンの影響下にある群れの論理で思考停止をしていれば、男性ももれなく同じくバカです。
そして、早い段階での思考停止そのものがみなバカだと言えましょう。
そのようなことに自覚的になり、加えて容易に正気を失いやすい人格やシチュエーションを認識し、相対化することで人はより良く生きられるのではありますまいか。
それらの個々人の改善の集積が、イエの改良、そして社会の改善に繋がるのではありますまいか。