最近「ごんぎつねを読めない子供たち」というネット・ニュースがありました。
知能が低めの子供は読解力が低く、人間は言葉で思考をするので言語力の低さと総合的な知性は比例する、というような内容であったと解釈しました。
まぁ、実際には本文からはそれ以外の感想も受けとったのですが、少なくとも執筆者の意図はそのような物であると受け取りました。
ごんぎつねというのは最後に立ち上る硝煙が弔いの線香のメタファに読めたりと非常にギミックフルで大変に「ひねられた」作品で、子供がみんなそう簡単に読み取れるような作品ではないという気がするのですが、まぁ記事の大要にはおおむね同感です。
面白いのは、この記事が出回った直後に、世間の若い人たちとアンダークラスの人たちに人気のある、なんといばいいんだろう、タレントコメンテーターのような人が「世の中のほとんどの大人の知能は中学生どまりなんで、中学生にもわかる簡単な言葉を使うことが有効だ」という発言をしていたことです。
この発言者の方に関しては私はなんの関心も無かったのですが、これは非常に面白い対比だったので印象に残りました。
紹介として、随分感じの悪い文章で書きましたが、確かに彼が言うように「中学生どまりの知能」の人たちを相手にしていれば、必然彼の信奉者はそういった層になるはずなのです。
これは典型的な「大衆はブタだ」式の考え方で、豚であるのでから豚として扱えば互いに便利でWINーWINではないか、という非常に合理的な姿勢です。
しかし、これはあくまで資本主義の理論、もっといえば彼が属しているバーナム的資本領域での理論であって、教育や社会運営、政治を考える上でそれでは非常に芳しくないことになります。
ごんぎつねが読めない子供たちは問題だ、と思う意識の方が、教育や社会の運営においてはより良いかと思われます。
いまある環境の中でその場の最大限の利益を効率的に得ることが目的でなく、未来のために働くのがそういった仕事の役割だからです。
この、後者の論客の方はとにかくその場しのぎの一時のことさえ最適化してやっていけば良いという産業哲学を貫いていらっしゃるように見える方で、その場その場呆れるような無知な発言を平気で堂々としていたりします。
それに対して突っ込まれる時にはすでにその時は過ぎてしまっているので、本人は知らぬ顔でトンズラしてしまってなんの損もない、というような生き方をされていらっしゃいます。
こういう人は世の中に沢山いるので、恐らくそういう人たちの支持は集めやすいことでしょう。
逆に言えば、そういう大人は世の中に満ち満ちている訳で、その中で頭一つ飛びぬけてカリスマ論客のようになっているということは、この方やはりある種の天才性が高い。
同じような(というと言い方は悪いですが)生意気と鬼面人を驚かすような態度の若手論客が他にもいますが、今回の政教不分離の問題が明るみに見た時に、その多くは単に世論の裏を打つだけの発言をしてひんしゅくを買い、またその逆張りをしているだけの薄っぺらさが露呈されている状況となっています。
結局のところ、本気で大きな規模の戦いが興ったときに、単なる口先だけの人間では中々通じることはない。
しかし、件のカリスマ論客は、今回まともな発言を一貫していて、物凄く信頼性がある若者のように振舞っているのですよね。
おそらくは、またことが落ち着いていたずらがし放題の状況となれば舌を出して適当なパフォーマンスをして稼いでゆくのでしょうが、きちんと退き時を心得ている。
この、潮の満ち引きを読み取る直感のような物は、勝負強さと直結していることでしょう。
毎日的を射た発言に私は大変驚かされています。
どうやらカルトとの間に私的な敵対関係があるようなのですが、その線引きとは別に、姿勢や言葉の選び方が、今回に限ってはきちんと人の信頼を得られるような態度を選択しています。
と、言ったようなことも含めて、語彙や言語に関わる能力は人間の精神を細分化し、より細かい目盛りで物事を判別し、発信が出来るようになる。
人を自由にするために、大変重要な能力であると改めて思う次第です。