ある老師が「武術家として大切なことは、後ろめたい気持ちを抱かないで良いように生きることだ」と言われていました。
これは何をしてもかまわないという厚顔無恥になってうしろめたさを感じるな、ということではもちろんありません。そうとも取れるのでちょっと一旦困るのですが。
八月、日本での一日の新規感染者は毎日20万人を越え、世界最悪の数字を記録していました。
その環境下で、都の基準での重傷者の内、31人が重傷で22人が死亡だという報道がされていました。
重傷者の三分の二以上が死亡している。
九月現在、この数字は重傷者22人中、22人が死亡と言う数字になってきています。
こういう状況の流れの中で、我が国の首相は夏休みに遊びまわり、感染して職務に支障をきたしていました。
そのことに、大きな問題意識を感じています。
多くの国民も、同じように感じてもらえたらと思っています。
しかし、私自身はパンデミック以降、生活を全く変え、仕事も変え、将来設計も大きく変更させて、可能な限り他者に迷惑を掛けないよう(死者を出さないよう)、自粛生活を送っていますが、多くの人々はそうではありません。
首相と同じく、夏休みに遊びまわって一生懸命20万人の新規感染者をこさえていたという人が多いことでしょう。
そのような人たちが、すっきりとした気持ちで首相を批判することは難しいのではないでしょうか。
もちろん、一国の首相と民間人は責任の大きさが違いますので、無辜の民の立場から「俺たちはいいけどお前はダメだろ」ということは可能です。
しかし、良識がある人であるほど、そのことに対して「うしろめたさ」を感じてうまく批判が出来ない気がします。
そして現在の政権は、批判されないまま反省をするような自浄作用は持ち合わせていませんね。
つまり、国民の側が一定の良識に従って日々を暮らしていないと、政治を動かすことが難しいという力の流れが発生します。
よって、平素から身を慎んで生きていないと、必要な批判による世の改善をしづらくなってしまう。
そうなると、それも含めて余計にすっきり生きられなくなってしまいますね。
私が師父から武術を通して教わったのは、すっきりと心地よく日々を暮らすということでした。
士の生き方であり、タオであり、気功であり、老荘であり、佛教です。
これほどの長い自粛をしていれば、あるいは私がお預かりしている門派の形式が伝わらなくなってしまうかもしれません。
私はそれでよいと思っています。
何年も前、師父が「自分は武術なんて無くなってもちっとも困らない」と言うのを聴いて、それでは私は困る、と思いました。
けれども次第に、私も「正しいことをして武術がなくなるならそれでよい」と思うようになってきました。
今に至って、その答え合わせが出来てきたように感じています。
自分の流儀や名利を存続するために新規感染者をわざわざ増加させて、たくさんの人命を奪っても構わないというような活動をしている人が、その結果、天下の大局に対する批判がまっとうに出来なくなってしまっては、一体何のために武術をやっているのかが分からないではないかと思います。
そのような小さな武術を私はまったく教わっていない。
正しい立場に立ち、体制に苦言を呈するために己の武術が滅びてゆくのなら、それは喜んで滅ぼしてゆきましょう。
我が身の利を省みず、大きな善のために活動するというのが武術の意義ではありますまいか。
そのように思えるように育てていただいて、本当に良かったと思う。
これをして、師父からいただけた武術は「本物だ」と胸を張って言うことが可能です。
しかし世代の近い連中を見回しみても、同じところに立っている「武術家」を、とんと見つけることはできません。
これは一体どうしたことでしょう。
けばけばしく喧伝している連中は、そこらじゅうにあふれているようなのですが。
おそらくは世を憂う良識のある本物の武術家たちは、静かに隠棲されているからなのでしょう。