高校生時代までは、ミー坊の人生は危なっかしいことがありながらも彼自身は自分の好きなことをして生きて居られているように見えました。
しかし、この映画は彼がどうしても咀嚼が難しい通過儀礼に遭ってゆくということがきちんと積み上げられています。
物語序盤、小学生時代のミー坊が最初のそれに出くわして、咀嚼しきれないタコの足をなんともいえない表情で硬そうに噛み締めているという印象的なシーンがあるのですが、そういう苦い経験がこの後たてつづけに起こります。
不良たちと仲良くなった後、ヒヨは「俺は東京に行っていい大学に入る」とミー坊に打ち明けます。
明らかにバカ学校の、長ランの背中に「狂犬」と刺繡を入れている奴がそんなことを言えばみんなが笑うでしょうが、実際に彼は本気で勉強に頑張り始めます。
ミー坊も「ミー坊も勉強してヒヨと同じ東京の大学に行く!」と言うのですが、直後に「でもお前バカじゃん」と言われます。
このバカ、という言葉、現在の我々は気軽に使ってしまっていますが、昔は場合によっては放送自粛がされることもあったような言葉です。
赤塚不二夫先生は「天才バカボン」というタイトルのマンガを描いているときに読者の少女から「わたしの弟はバカです。でもみんなで仲良く遊んでいます。先生はバカをバカにするのですか」というお手紙をもらったということを書かれていました。
それに対して赤塚先生は「違うんだ、これはバカともみんな仲良く遊ぼうというマンガなんだ」ということを返したというのですが、ここで言う「バカ」が今現在私たちが普通に言う「バカ」とは意味が違うことはお分かりいただけますね。今で言う発達障害を意味していることが想像されます。
小学生時代からミー坊と仲の良かったヒヨが言う「お前はバカじゃん」という意味のバカは、ダブルミーニングになっているように私には感じられました。
ヒヨにインスパイアされたミー坊は、東京の大学で勉強して「おさかな博士になる」という夢を抱き、これが以後の彼の人生のモチベーションとなって、物語もそれを縦軸とすることになるのですが、ミー坊はまったくなんの説明もなく大学には入れません。
これがつまり、私がフックされたCMにあった「普通のことが苦手な子が」ということなのでしょう。
ミー坊はこの後、東京で一人暮らしをしながらいつかお魚博士になるべく就職するのですが、ここでこれまでは描かれていなかった「社会とさかなクンさん」が正面から描かれます。
「普通のことが苦手」が、まったくの社会不適応者を意味しているということがこれでもかとこちらの目に突き付けられてきます。
ちょっと見ていてツラいくらいなのですが、それをきちんと描くからこそこの映画はすごいのです。
この記事シリーズの中で私は、ミー坊をハウルに例えましたが、ミー坊にもハウルと同じく都会で愛するものを得て家族を持ち、「まっとうな男の大人」になる機会が出てきます。
しかし、ハウルと違ってミー坊は何の説明もなくその機会を失われます。
映画の視聴者である我々は、相手の女性が無邪気なミー坊の横顔を見て「ダメだこの人とは居られない……」とドン引きをして、完全に自分とは違う世界の人間で一緒に生きてゆくことは不可能だと悟るシーンの、ドン引きした表情を直視するという経験をします。
恐ろしい、残酷な話です。
ようやく世間に拾われて救いのある方向に人生が転換するタイミングをもたらすのは、あのヒヨ君なのですが、そのきっかけの段階でヒヨ君も自分が「世間的価値観で由としていた」人生を棄てるというシーンが描かれます。
ミー坊がヒヨ君に影響を与えて、ヒヨ君がミー坊に影響を与えて、という関係に二人はあります。
その中で否さかなクン的価値観の「世間」の方に行っていたヒヨ君は、再びさかなクンてき価値観の方に戻ってきてそちらに、それまでの社会で得て来た力を振るってミー坊を救う、という構造になっています。
ミー坊自身はなんも変わってないんだけど、ミー坊的価値観を分けてもらってかつちゃんと大人になった人達が彼に利子を付けてもらった力を返す話になっているんですね。
実にタオ的な塞翁が馬、因果の流れのお話なのですが、これを社会的価値観で生きている、否さかなクン的価値観の観客に対して説得力を持たせるのが、ヒヨ君を演じている柳楽優弥くんの演技力です。
彼はマスコミ業界で活躍しており、バブルの残滓でまだ華やかに生きています。
この、バブルの内に足場を築けたかどうかというのは、私たちの世代には非常に重要な人生の分かれ道なんですね。
その場のお金だけ羽振りよく得ていたという層は、バブルの終了後そのまま何も残らないまま荒れた不景気の世界にほっぽりだされることになりました。
実際に、そのような登場人物の姿もこの映画の中にはきちんと描かれています。
ヒヨ君は高校時代に生き方に目覚めて自覚的に生きていた子だけあって、きちんと足場を作った結果、華やかな人生を維持できている立場にあります。
彼は業界のモデルだかタレントだかの若い子と高いお店でデートをしているところでミー坊と会い、彼をバカにしたお相手に「ごめんね」とあやまって何度も頭を下げつつ、彼女を帰します。
この複雑なムーヴ!
一緒に笑って彼女の側の空気に同調すべきか、本当に好きなミー坊の生き方の方につくべきなのかというところが、柳楽君の表情の演技で物凄い説得力を持たされている。
その彼が、人前で話すなんて苦手だ、というミー坊を説得してテレビに出します。
この結果、我々は画面でさかなクンに直面することになり、これまでずっと書いてきたような倫理的葛藤、受け入れ方への労力を支払うという円環に送り込まれる訳です。
私たち、すでに価値観が固まりがちだった大人はちょっと、うまくさかなクンさんを咀嚼しきれない部分が残る訳ですが、純粋な子供たちはさかなクンさんの真価をまっすぐに受け止め、ミー坊は念願だった「お魚博士」に、世間的な関門である受験や在学中の単位取得という物を経ることなくなることができます。
社会的な関門では振り落とされるけれども、本当に素晴らしい能力があるという人は、こちらがわのルートできちんと評価をされることがある、というのは社会において非常に重要なことだと思いますし、私自身も大変に感謝している部分でもあります。
なお映画の冒頭、まるで島本和彦のマンガに出てくるような題字で「男か女かは どちらでもよい」と表示があるのですが、実はこれ、その直後にミー坊が男の子であるということが割とはっきり表現されており、作品を通してあまり意味を持ちません。
実際、女性と恋愛関係になるようなエピソードもあるので、のんさんが演じているけれどミー坊ははっきりと男子として描かれているんですね。
で、これを、小学生時代から彼を見て来て成功へと送り出したヒヨ君の目から見てみると、子供の頃から可愛くて、性のことに遅れていた友達が、近所の変質者に連れていかれていたずらをされてしまって、高校時代には女の子みたいな子になっていた、というお話がなりたつのです。
彼の視点からはそうなるということが、作中のセリフで割とはっきりと描かれています。
この物語を、スペシャルな子のダイバーシティのお話と取ることはもちろん当たり前なのですけれども、同時に、素直な心で生きることの大切さを、スペシャルな子たちへも含めて発信しているようにも思われます。
能力を高めるということは、誰にでも一定出来るんですね。
でも、素直に生きるということに関しては決してそうではない。
これは素直さと素直さが響き合った結果、たまたま幸せになれた人たちのお話でもあるんですね。
その背後で、きちんと、そちらの人生に進むという強い意思での決断をしなかった人たちも描かれている。
作中、フォレスト・ガンプのオマージュかと思わしきシーンもあるのですが、決してガンプのような無垢な聖人的にもミー坊は描かれていない。
ちゃんと彼のために犠牲になった人達というのが重ね重ね出てきています。
特に、最後に彼が成功を収めたと思われたところで母親の口から明かされる衝撃の事実と言ったら、私は椅子の上でひっくり返るかと思いました。
単純な成功譚ではない、生き方を描いた話として観ることができます。
以前にも何度か書きましたが、私の友達にも普通のことが苦手なヤツや発達が障害しているのがいくらもいました。
みんなおおらかでいいヤツらだった。
でも、社会に出てその狭さの中に何年かいた結果、卑屈で歪んだちっぽけな人間になってしまったのがほとんどでした。
あんないい奴がと驚かされるくらい、みんな卑しいくだらない人間になってしまった。
ここに私はこの日本社会の問題を見ます。
この国では個としてまっとうなことをするのではなく、媚を売ってかたやで権勢を張り、何かをしている振りのパフォーマンスをすることが社会的な役割として強要される。
さかなのこの中で、ミー坊が夜のお店に連れていかれ、そこである幼馴染とであるというシーンはそのことを強く思わされます。
そのキャラクターは普通を求めている人生観の人であり、後にそのためにミー坊の元から去ってゆきます。
普通だと思っていることは極めて強烈な歪みを伴うように私には感じられます。
もし、普通が苦手な子たちがそこでやって行こうと思えば、元々苦手なのだからヒエラルキーの下位にしかいられないでしょう。
居心地が悪い上に上手く出来なくて底辺というのは、一生を送る上では決して良い環境とは思えません。
それよりはね、せめて心地よく素直に活きた方がいい。
私はたまたま、そうして好きなように生きている過程で大道や天という東洋思想の学問に楽しみを見出し、幸いなことにここに至れました。
いわばさかなクンならぬカンフー君でしょうか。いや、カンフー君っていったらカンフー君がいますね。シーフー君ですかね。
結果的にそうしてなにがしかの形になるかは、あくまでたまたまです。
でも、底辺で嫌な思いをして何もない人生を送りながら人間性を腐らせるという生き方は、絶対に誰も選ばなくていいのではないかとは思うのです。
大切なのは心の在り方ではないでしょうか。